街をわたる風 三の蔵


 


保存データ:2018.2.7〜2019.12.8



これ以降のデータは街をわたる風をご覧ください。


憲法9条改憲反対応援団

 12月7日渋谷区にある聖心女子大学にロベルト・サモラ弁護士の講演を聴きに行った。前日の東京新聞(右の記事)で講演があることを知り、急遽出かけることになったのだ。
 サモラさんのお話はすでに今年の6月にも聴いている。その時は「コスタリカに学ぶ会」の主催で、半分は杉浦ひとみ弁護士に会うことも目的のひとつに入っていた。
 今回は日本国際法律家協会の主催。「学ぶ会」や「9条地球憲章の会」も共催している。
 ロベルトさんは映画「コスタリカの奇跡」にも登場するので、映画を見た方ならご存知だと思う。2003年にコスタリカのパチェコ大統領がイラク戦争支持の表明をした時に、その行為は違憲であるとして憲法裁判所に提訴し、勝訴した経歴を持つ方である。その時彼はまだ大学生であったことも注目される。
 また、あまり注目されてはいないが2007年には、ノーベル平和賞を受賞したことでも知られるオスカル・アリアス大統領が原発を導入しようとした(そこには安全保障上の=軍事上の理由もあったらしい)ときにも憲法裁銀所に訴え勝訴している。このことは前回、今回とも講演の中で触れられていた。
 安倍政権がすすめようとしている憲法改悪、とりわけ9条の改憲について憂え、地球を半周してまでも改悪阻止のために応援にやってきてくれたロベルト・サモラさんに感謝したい。

 9条改悪反対の応援団といえば、先月の8日に東京経済大学で講演会があったコスタリカ大学名誉教授ベルナール・エレーラさんのお話もそのひとつに数えてもいいのではないか。ラテンアメリカにおける非武装国家コスタリカのありようは日本ばかりでなく、世界中の国家が見習うべきものだ。
 わが国では軍備削減、安保条約廃棄などというだけで、「北朝鮮のミサイルが飛んで来たら」「中国に攻め込まれたら」と顔面紅潮して否定する。まして非武装などは論外の雰囲気である。
 いったい日本を攻撃して何の得があるか、攻め込んで何が得られるか考えれば、現今の国際社会で現実的でないことは誰にでもわかることだ。もちろんアメリカ軍が存在せず、攻撃的な装備を持つ自衛隊でないことが前提だが。そのためにもアメリカ軍には自国に戻ってもらい、自衛隊を本来の防衛能力だけにスリム化することだ。そして永世中立宣言を国際社会に向けて発すればいい。
 国境でのいざこざは外交努力で収めるよう努力する。それが望めなければ国際的な機関で調停をはかる。これが成熟した国家としての、そして日本国憲法で定められたやり方ではなのいか。
 
 応援団としては少々「変化球」気味だが、同じく東経大で聴いた徐京植さん(同大学教授・図書館館長)のお話(東京経済大学OB・OG9条の会 記念講演会)もこれに属すると考えたい。
 『半難民の位置から―戦後責任論争と在日朝鮮人』という著作がある徐さんは、憲法9条に対しては、いわゆる護憲派とは少し異なる視点を持っている。
 1947年5月2日(日本国憲法施行の前日)、大日本帝国憲法下で公布された最後の勅令である外国人登録令によって日本国籍を奪われた朝鮮人・台湾人など旧植民地出身者は「戦後日本がつくりだした『難民』である」(同会レジュメ)であるとする徐さんは、そのような視点から見た日本国憲法第9条について以下のような見解を示す。9条の定める非戦・非武装は諸外国、とりわけかつて日本が侵略した朝鮮・台湾・中国・東南アジアに対する二度と侵略をしないという確約であり、9条の改変はその確約を明文上もかなぐり捨てることになる(正確ではないかもしれないが、個人的にはそのように理解している)。
 私たちが9条を守るということは、たんに日本の平和を維持するにとどまらず、世界の平和に向けてメッセージを発信するということでもあるという理解に立つ必要がある。そのうえでさらに平和をおし進めるために「不断の努力によつて、これを保持しなければならない」(憲法第12条)のであって、軍拡路線を押しとどめ、さらに軍縮に舵を切り替えなければならないと考える。
 道はまだまだ遠い。
(2019.12.8)



STOP!南西諸島の自衛隊配備 宮古島保良地区・弾薬庫建設に反対院内集会&政府交渉

 12月2日、参議院議員会館講堂にて開かれた上記集会、および政府交渉(防衛省・経産省)に参加してきた。主催は南西プロジェクト。宮古島からは同プロジェクトの楚南有香子さん、同島保良地区から下地茜さんがはるばる現地から駆けつけ、報告と政府交渉に臨まれた。講師としては軍事ジャーナリスト(ぼくらの世代の者には「反戦自衛官」というイメージが強い)小西誠さんが登壇され、「南西諸島の軍事化」というテーマでお話があった。
 宮古島をはじめとした南西諸島に自衛隊の配備が強引に進められている。しかしこの事実はマスコミが取り上げないこともあって人々にはあまり知られていない。現地では孤立した厳しい闘いが継続中だ。
 誘致賛成派は自衛隊が来ることによって過疎からの脱却・経済振興などの効果をあげます。沖縄戦のことを忘れたのでしょうか。小さな島で戦乱が起これば、どこにも逃げ場はありません。

 この他にも馬毛島での在日アメリカ軍による空母艦載機の離着陸訓練の移転の問題もある。地権者の開発会社と防衛省で買収交渉がまとまったとの報道もある。その額は当初予算の4倍に膨らみ160億円だとか。そのことも問題だが、米軍の空母艦載機の離着陸訓練の他に、馬毛島を自衛隊の共同使用にすることによって南西諸島の有事に備えた物資や人員の集積拠点、つまり兵站拠点にしようとしていることも指摘しておかなくてはならない。
 同じことは辺野古の新基地建設についても言え、アメリカ軍と自衛隊の共同使用が目論まれています。これも中国包囲網をねらっているアメリカの戦略に基づく自衛隊の南西諸島の軍備増強の一環です。
 南西諸島ピースプロジェクトではこのことを多くのの人たちに知ってもらうためアニメを作成した。ユーチューブで誰でも見られるのでぜひご覧になっていただきたい。同プロジェクトではこのアニメを広めることを希望している。

 石垣島での自衛隊配備反対闘争を伝える動画も以下のサイトで見られますので、あわせてご覧ください。
https://youtu.be/h32XfX5mlag

 集会あと防衛省・経産省との政府交渉があったが、両省の官僚の答えはまるで他人ごとのような答弁。「法規にのっとって対処」「持ち帰らせていただきます」の繰り返し、答えに詰まればだんまり戦術、全く誠意にかけるものであった。
 集会写真も彼ら官僚の顔が写らないようにとの配慮がされていた。そのような了解のうえで政府側との交渉が決まったとのことだったが、どうにも納得できなかった。一般の集会参加者が言うなのならばまだしも、仕事で来ている彼らがそれを言う権利はないだろう。
 集会終了後、現地から参加したお2人のお礼の言葉と決意の表明は心打たれるものがあった。

 地元住民の不安や反対をよそに、南西諸島ではいま強引な軍事化がすすめられようとしている。アジア太平洋戦争末期、捨て石にされた(本土側から言えば「捨て石にした」)沖縄。再び沖縄を捨て石にすることは許されない。本土の人間のひとりとして西南諸島をアメリカのための最前線に差し出すことに断固反対します。
(2019.12.8)



幕張メッセで武器見本市

 憲法第9条で軍隊を持たす戦争を否定する平和国家日本で武器見本市が開かれる。少し前なら絶対に考えられないことであった。2014年に安倍政権が「武器輸出三原則」を閣議決定のみで撤廃、「防衛装備移転三原則」を策定したことがその背景にある。
際限のない軍事予算の増大、自衛隊の海外派兵、沖縄を中心とした南西諸島への軍事シフト、軍学産共同体の推進と安全保障技術研究推進制度による研究者の取り込みなどここ数年の軍拡路線は、平和憲法を維持しその理念を追求しようとする者にとって危機的な状況に達している。
 そんな中での武器見本市だ。自ら旗を押し立てて抗議に赴くほどの元気はないが、抗議行動を呼びかけられれば出かけるくらいの矜持はある。ちょうど心臓の外来診療の日だったので、早く終われば出かけてみようという構えでいた。診察では少し心臓がでかくなっている(つまり、疲れがたまっている兆候があるということ)と言われちょっと迷った。しかし予想外に診察が早く終わったので、ぜんまいを撒き直して出かけることにした。

 病院のある新宿河田町から現地の幕張メッセの会場までは1時間20分ぐらいかかるとGoogleマップが教えてくれる。幕張メッセは千葉だから確かにそれくらいはかかるのだろう。けっこう遠くなんだという思いを新たにする。
 そういえば幕張は、ずっと昔、親に連れられ家族全員で潮干狩り出かけた所だ。今でも潮干狩りはできるのだろうか、そんなことを考えながら電車に揺られて行く。
 新木場で京葉線に乗り替え、海浜幕張に向かう。車窓の風景は潮干狩りなどという「のどかな」雰囲気をはじめから拒絶しているようだった。高層マンションや倉庫群がそこここに建ち並ぶ。ショッピングモールのようなものも見られる。それらを結ぶのは太くてまっすぐな道路。高速道路は鉄道に並行して走っている。大きな川や運河を時々超える。その先には海も見え、貨物船らしき船が浮かんでいる。この近くに潮干狩りができる場所があるとはとても思えない。

 幕張メッセは海浜幕張駅から徒歩で10分ほど。駅前には抗議と案内を兼ねたスタッフが数人いる。彼らに会場を訪ねる。前を歩いている方について行けば分かると言われ、その気になってついて行く。しかしこちらは歩くのにも不自由な身、すぐに「ガイド」を見失ってしまう。後から来た同年配の人も抗議に向かう様子なので二人して会場をめざす。
 しばらく行くと何やらスピーカーから騒音が聞こえてくる。一瞬仲間かと思ったがどうも声の調子が違う。やはり右翼の街宣だ。抗議行動へのカウンター攻撃だろう。ということは近くに抗議する仲間がいるはず。目を凝らすと正面にのぼり旗が何本も見える(トップページの写真)。結構な数の人々が集まっている。「日の丸・君が代被処分者の会」のメンバーも何人かいた。国立天文台に軍事研究反対の申し入れに行った人や彼の仲間の人たちもいる。
 この抗議集会は「幕張メッセでの武器見本市に反対する会」と「安保関連法に反対するママの会@千葉」が主催している。武器見本市の主催はDSEI(DSEIは2年に1度イギリスで開催されている武器見本市。イギリス以外での開催は初めて)。防衛省や外務省・経済産業省までが後援している。協会サポーターとしてなんとJAXA(宇宙航空研究開発機構)も名を連ねている。それ以上に会場を提供した千葉県も問題だ。
 平和憲法を持つ日本で人殺しの道具となる武器見本市とはとあきれるが、これが日本の現実である。さらに残念なことは、この集会の主催が市民団体のみだということだ。そればかりではない、抗議集会には名だたるナショナルセンターの旗ばかりか組合の旗さえ無い。もちろん(?)党派の旗もない。唯一共産党の議員が挨拶をしていたのみだ。元教員の立場から言えば、せめて日教組の旗ぐらいはほしかった。どーした日教組!
 政権側の傍若無人さに対し、批判勢力の取り組みの弱さを実感させられる。抗議する人たちがいることがせめてもの救いだ。マスコミの姿を探したが、それらしいスタッフは見られず、ネットメディアの取材が多かったようだ(翌日の東京新聞は武器見本市と抗議行動のことを取り上げていた。参考までに東京新聞の記事を添付)。
 周辺では幕張メッセの関係者であろうか、集会、ビラまき禁止の立て看板をガードマンが掲げていた。同じ内容を示した張り紙も柱に張り付けてある(写真上)。そんなことにはめげず集会は続けられた。1分間の「ダイ・イン」、最後に横断幕を並べて全員でシュプレヒコール(写真中)をして抗議集会は終了した。

 集会終了後、後学のために見本市をのぞいて行こうということになり、国立天文台抗議仲間と共に見本市の受付に赴いた。しかしながらセキュリティーが厳重で、事前登録をしていなければ入れないとのことであきらめざるを得なかった(写真下は見本市の入り口)。
※新聞記事はクリックすると拡大できます。
(2019.11.22)



メーデーと憲法集会

 立川で開かれた「憲法集会」に参加した。今回は2回目。
 昨年は有明防災公園で開かれていた「憲法集会」には参加せず、立川の集会に出た。体力的な限界がその理由だが、日の丸君が代処分の裁判や集会でお世話になっている澤藤弁護士が登壇するというのもそのことを後押しした。
 2年前の有明の集会には出るには出たが、デモに参加するのには体力的な限界を感じていたので集会のみの部分参加だった。ことほど左様に少しづつ行動範囲が狭まっている。全ては体調(心不全の進行)によるものだ。

 2日前の5月1日はメーデー。1989年総評が解体し連合が結成された。そのため同年からメーデーも3分裂。政治の分野では「野党は共闘」といいつつ、労働運動の現場ではメーデーまでもが統一できない状態になっている。
 ここ何年かは、日比谷野外音楽堂で開かれている全労協メーデーに参加している。それまでずっとデモも含めて参加していたのだが、昨年は集会だけでデモは見送った。解散地点まで歩き通すのはきついだろうとあきらめいたのだ(先に記した通り、憲法集会でも同様の対応になった)。
 今年は何となく歩けそうな気もしたので、デモにも加わることにした。デモと言っても、天皇制反対のそれのように外部(主に右翼)からの攻撃や、機動隊のきつい規制があるわけでもない(この方面のデモには、やはり同じ理由で数年前から参加を見送っている)。アピールしながら歩くのだから、通常の歩行よりはゆっくりになるはずだ。だからなんとかついて行けるだろうというのが参加する前の判断だった。
 しかし歩いてみて、即座にこれは無理だと悟った。日比谷公園を出てすぐに全体の隊列の流れから遅れがちになる。歩き始める前はシュプレヒコールをあげていたのだが、とてもそれどころではなくなった。前を行く人との空間ができ、それが広がる。後から来る人に悪いのでなるべく左側(歩道近く)を歩き、追い越しやすいようにする。実際、次々に後続部隊に追い越される。それでも息も絶え絶え、しかめっ面で歩く。歩き続けるのが精いっぱいなのだ。
 仲間のグループ(「日の丸君が代被処分者の会」)ははるか先の方を進んでいる。信号待ちがあれば少し近づくが、すぐに距離は開いていく。歩道に上がって途中退場しようかと何度か思ったが、それも悔しい。なんとか解散地点までは何とか歩き通せたが、すでにグループは総括集会を終え解散した後だった。

 憲法集会も本当なら有明まで行きたいのだった。しかし今の自分にとって有明はあまりに遠い。しかもデモには参加出そうにない。そこで今年は立川の憲法集会への参加を早々に決めた。
 近くの集会に出るのだから、馴染みのある「戦災変電所」の『変電所の奇跡』の販売も試みようと思い立ち、地元の「変電所を保存する会」のメンバーにも声をかけた。会の中心メンバー2人が来てくれることになり、3人で本の販売を担当することとなった。これには東大和市とサンホセ市の平和友好都市協定締結の絡みもある(つれづれなる風「忙中閑あり」参照)。
 立川の憲法集会会場である立川柴崎学習館ホールに向かう。この会は幅広い個人が集まって作った「市民のひろば・憲法の会」という団体が主催している。参加・賛同している個人のの中には、ぼくの知り合いもたくさんいる。内情についてはよく分からないが、市民運動の理想的な形として運動を続けているように見える。運動が分裂しがちな中、市民の結集軸のひとつになり得ているのではないだろうか。
 今年の集会の内容は、リレートークと 杉田敦氏(法政大学教授)による記念講演「政治の暴走と憲法の力」、そして琉球民謡の演奏だった。杉田教授のお話は興味深く、政治や憲法を考えるうえでのひとつの方向性を与えてくれた。今後機会があれば著作を手にしてみたいものだ。
 杉田氏の講演までは、100名以上入る会場は人で埋まっていたが、琉球民謡の演奏前には引き上げてしまう人も多く、会場にはあきも目立った。余計なことだが、プログラムの配置に工夫が必要だったのではないかと思った。それはともかく、このような集会を近くで開催してくれた主催者の皆さんには感謝したく、おそらく来年も参加させてもらうことになるだろうと思いつつ会場を後にした。
(2019.5.3)




眺める山


 2月に映画会を控えている。それまではどこにも出かけられない。もちろん、山に行こうにも歩いて登ることなど論外になっているから、出かけるとしても車に頼るしかない。それすらかなわない時には、こうして高い建物に登りはるか彼方の山を眺めると少しは気分が落ち着く。
 わが町からは奥多摩の山並みがよく見える(写真上)。
 もっとも特徴的なのか大岳だろう。正面中央より少し左手に見える黒っぽい山だ。象の頭のような形をしている。むかし読んだことのある『星の王子さま』の冒頭に出てくる絵に似ている。それは「ゾウを飲み込んだウワバミ」の絵だ。大人たちはそれを帽子だと勘違いしてしまう。だからぼくも大岳はゾウの形と覚えこんでしまった。近くには御岳山もあり、右手をよく見ると参道の杉の木らしき形状も見てとれる。それよりも大岳寄りにある小さなとんがりは奥の院だ。シロヤシオが有名なところでもある。大岳の左手には大菩薩連嶺も見える。
 大岳の右方向、写真のほぼ中央に見える左手に少し傾げた台形の山は、東京都の最高峰(と言っても、山梨県と埼玉県の境界にある)の雲取山。標高は2017mある。2017年は標高と同じ年ということで登山者が押しかけたようだ。台形の左の角が小雲取山だ。雲取より少し低く、1937m。石尾根(六つ石山方面から続く東からの稜線)を歩いてここまで達すると、あとはなだらかな登りなので気分もよく、景色を楽しむ余裕も出てくる。
 雲取山と一体化してみえるが、小雲取山の左に谷をはさんで見えるピークが鷹巣山。こうしてみると鷹巣から雲取は目と鼻の先だが、途中には日陰名栗峰・高丸山・千本ツツジ・七ツ石山といくつものピークが控えている。その多くは巻くことも可能だが、かと言って平らではない。鷹巣山には、夏も冬も何度となく登った。峰谷奥という部落まで車で入れるので、そこから1時間と少しでピークに立てるのが利点だ。
 雲取山の右手に谷をはさんでこんもりとした山が芋ノ木ドッケだ。「ドッケ」とは盛り上がったところという意味だそうだ。アイヌ語の名残なのだろうか。ここは三ッドッケ方面から続く長沢背稜の一角にあたる。石尾根と長沢背稜はどちらも東西に連なる尾根で、日原川を挟んで南北に位置している。大まかには、合流点が雲取山と考えていいだろう。
 雲取山から武甲山までは長沢背稜と、有間山を含む山稜がつながっている。ここから見ると一体として左右(南北)に向けて広がっているが、前者はこころもち前後(東西)に偏り、後者は左右に延びている。大まかに言えばL字型というわけだ。L字型の下の角にあたるところが日向沢ノ峰ということになる。長沢背稜の途中にはソバツブ山のピーク、有間山の先には大持・子持山が見えている。写真の一番右手にある三角形の山が武甲山だ。実物をよく見れば、山肌が削られて変形しているのも確認できるかも知れない。もちろん石灰岩の採掘によるものだ。
 写真ではほとんど確認できないかも知れないが、手前に重なって見えるのが本仁田山(左)と奥多摩の展望台、川乗山だ。
 下の写真は、奥多摩よりはずっと左(南側)、富士山を中心とした山塊である。富士の左に広がるのが丹沢山塊。一番左の三角形が大山、いちばん高いのが蛭ヶ岳ということになる。富士の右ては高尾から陣馬山を経て、五日市方面に続く山並みだろう。こちらはあくまでも「おまけ」として載せました。
 富士山は見慣れているけれど、この町からは奥多摩の山波の方がずっと親近感が強い。道路を走っていて大岳・雲取が見えたりするとなぜか安心してしまう。富士山がテレビに出てくるタレントだとすれば、奥多摩の山々は隣近所のおばさんと言うことになる。
※写真をクリックしてください。もう少し大きくなります。
(2019.1.11)




2つの市民集会

 同じ題名で市民集会のことを紹介したことがある。今回はそれとはまったく違う内容である。

 9月30日、福生で開かれた「横田集会&デモ」(横田実行委員会主催)に参加した。台風24号が接近するなかだったが、約60名が集まり、集会の後、横田基地をめぐる道路など約3qをデモ行進した。「正式配備」(すでに数ヶ月前から実質配備されていたが、)となる10月1日を直前にしての行動である。
 デモの途中、第2ゲート前では(文書手交をしようとするデモ隊に対し、代表者5名しか認めようとしない)福生署の妨害があり、騒然となった。しかたなく代表者5名が、オスプレイの配備撤回などを申し入れる文書をアメリカ空軍基地に手渡すためにケート前まで赴いた。しかしアメリカ側はゲートを開けようともせず、文書の受け取りも拒否。傲慢なアメリカ軍の対応にデモ参加者は抗議の声をあげた。
 航空自衛隊横田基地の担当自衛官は基地外に出てきて、(なぜか第2ゲート前の交番そばで)同じ文書を受けった。アメリカ軍は我関せず、自衛隊はさすがに市民・国民の声を、受け取りまでは体裁上拒否はできないということか。
 ぼくはこの時まで、横田基地内に航空自衛隊の基地があることを知らなかった。横田基地はアメリカ空軍と航空自衛隊の共同使用(自衛隊は間借りでしかないだろうが、)の飛行場ということになっている。確か、昨年も同じような光景を見かけた。
 この他に朝鮮戦争における国連軍の後方司令部もあるのだ(といっても、実質的にはアメリカ軍だ)。朝鮮戦争はまだ続いているし、その司令部が日本にあるのだ。日本は実質的に第三国ではなくなっている。しかもイージス艦や、将来的にはイージスアショアなるもので(日本を守ると言いながら、その実)アメリカの防衛を、巨額な日本の税金で行おうとしている。

 話は広がってしまったが、ここで書こうとしていたのはそういうことではない。

 翌日、10月1日、一転して台風一過で晴れ渡った日になった。この日からオスプレイの「正式配備」がされる。新聞報道では、オスプレイ正式配備に抗議する集会とデモが「オスプレイ横田配備反対連絡会」の主催で開かれ、約180名が集まったとある。また、第2ゲートの前では「横田基地の撤去を求める西多摩の会」がよびかけで約100名がスタンディングに参加したとのこと。
 オスプレイ配備や横田基地に反対のするのは当然だろうと思う。危険性からいってもそうだし、地域経済の阻害要因でしかない基地の存在は認められるものではない。だから集会・デモは大いにやるべきだろう。だが、間に1日も空けず、ほぼ同じ場所で同じ趣旨の抗議行動が開かれたことに、一参加者として複雑な思いを禁じ得ない。

 ぼくは一方の抗議行動にしか参加していないが、どちらの行動に参加した者でも、一般参加者であれば同じ思いを持つのではないか。もし2つの抗議行動がひとつにまとまれば、もっと大きな力になれただろう。単純に計算しても60+180≒250にはなる。いや、300を超すことだってあり得ないことではない。
 一般参加者にとって、どちらの行動に参加するかは、その時々の人間関係や自分の信条や立場で違うかもしれない。ひとりひとりにそれぞれの思いはあるだろう。だが、他の一方の行動を否定するものではないはずだ。
 それぞれの主催団体の中心メンバーにも言い分はあろう。これまでの運動の経緯や利害対立もあったのかもしれない。それでも市民運動なのだ。上部団体に縛られることもない(はず)だろう。
 小さな運動体が、それぞれ趣向を凝らして、時と所を異にして行動することを否定はしない。そういう運動があっていい。しかし日をまたいで、しかもほぼ同じ場所で、同じ内容の抗議行動がなされるさまは、第三者が見たら滑稽、愚か、分裂という負のイメージしか抱かないだろう。いかに当人たちが正義を信じていたにせよだ。抗議行動に参加しようという心ある人の意欲すらそいでしまいかねない。
 まして軍事的や政治的に優位に立つ者から見れば、それは喜ばしいことあろう。これを「利敵行為」といわずして何といえばいいのか。

 「野党は共闘」という、その通りだろう。とりわけ小選挙区制あっては。
 「市民がつなぐ」という、その市民が分裂していて(少なくともそのように見えて)どうする。
 一般参加者のたわごとと言うなかれ。一般参加者がなくて市民運動は成り立たないと思え。
(2018.9.31-10.1)



廃プラ施設建設強行

 東大和市の南部、実質的な住宅地区に、半ば強引に廃プラ施設(廃棄プラスチック中間処理施設)の建設が進められている。
 隣には老人福祉施設や社宅隣接し、近くには給食センター・学校(中小企業大学校)や市民・都民が集うスポーツ施設・公園もある。しかもこの地区は30以上のマンションが建ち並び、「マンション銀座」とも呼べる地区である。道路を経たてた場所にも数棟のマンションが建ち、大規模商業施設も近い。
 何故このような場所に廃プラ施設が、と誰でもが思う。
市側の言い分はこうだ。当該地区が工業地域であること、1994年から東大和市の暫定リサイクル施設として同地区を使用して来たことをその理由としてあげる。
 しかし、工場が立ち並んでいた24年前の周辺地域の状況と、現今の環境は一変している。本来であれば早々に用途替えすべきであったのだ。工業地区として温存させてきたこと自体が意図的な不作為としか考えられない。

 廃プラ施設は焼却による排煙がないとはいえ、VOC(揮発性有機化合物)の発生の恐れは強い。しかも新たな施設は近隣2市と併せた3市共同処理施設で、東大和市の暫定リサイクル施設とは規模が違う。その割に当該地区は狭いのだ。そのため新施設は、東京都の緑化条例クリアするために屋上緑化をせざるを得なくなっている。また、3市のごみを運び込み、更に製品化して運び出すため、搬入・搬出車両の出入りが激増する可能性もある。
 市はVOC排出を抑えるため、また流入車両を抑えるため様々な対策をするというが、不安はぬぐえない。

 東大和市は、これまで廃プラの処理は民間業者に委託していた。市に限って言えばそもそも必要のない施設なのだ。建設だけでも26億(3市を合わせた額)もの税金を使うことに、市民からも疑問の声が上がっている。運営費を合わせればそれ以上の額になる。
 これまでの経緯にも疑問が多い。市は他の候補地を検討すらしてないのだ。当該地ありきの姿勢に住民の理解が得られるはずはない。
 「地元理解を前提に進めるべき」という市議会決議もあった。市も当初は周辺住民の理解を得ることを前提としていたにもかかわらず、「必要な施設だから作る」と方針を一変した。都も、本来民間施設であれば建設できない場所であり、地元理解を得ることを前提という見解を示している。昨年の東大和市議会本会議では建設中止を求める陳情が可決されているのに、建設はスケジュール通りに進められている。そのことに市議会も正面切って異を唱えない。民主主義も何もあったものではない。

 これだけの疑問・反対の声がありながら半ば強引に進められている廃プラ施設建設。作ってしまえば文句も出まい、と高を括っているのか。やり得、逃げ得、無責任の姿勢は、国と同じだ。こんな施設建設の進め方を許してはならない。
(2019.9.24)



9.17さようなら原発全国集会

 2011年から8年目の反原発集会。第1回目の盛り上がりと比べると、少しずつ人数も減っている実感がある。逆に言えばそれだけコアな人たちが集まっているのだと思いたいが、必ずしもそうでもないらしい。

 デモはきついから集会だけの参加だな、と初めから限定付きだった。
 原宿駅まで電車を乗り継いでやってくる。駅の階段は避け、できるだけエレベーターを使う。階段歩行は息が切れるし、集会参加までは余計な体力を使いたくないのだ。会場に到達するまでに疲れ切ってしまったのでは元も子もない。
 駅から会場の代々木公園までの道のりも、年を経るごとに遠く長く感じられる。
 会場近くの歩道では「被処分者の会」(「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会)の人たちが署名集めをしている。第4次訴訟の人たちが多い。中にはそれ以前の原告たちもいる。
 ぼくも、昨年はこの会場で署名集めをやった。会としては年中行事のようになっているが、集めている人たちは真剣で、熱心だ。
 及ばずながら、ぼくも手伝うことにする。会場に入って画板を手に署名を依頼して回る。昨年やったから要領は心得ている。「大法廷を開き審理を尽くすこと」「すべての処分を撤回し損害賠償を命じること」が署名の眼目だ。その趣旨を説明しながら個別にお願いして回る。
 こういう集会に来ている人たちだ、多くは賛同し署名をしてくれる。労働団体・政党関係・市民団体の旗を持っている人たちの間を縫うようにしてお願いして回る。
 その一角に日教組の旗が見えた。県教組の旗のもと、小さな集団がいくつも集まって日教組というグループを成している。

 日教組には、ぼくもかつてはその傘下に属していた単組のいち組合員だった。ナショナルセンターの再編成の中で日教組も分裂し、ぼくも一時は独立系の組合に入ったが、その組合が日教組に加入することになり、組合員をやめた。それ以降、定年まで非組合員だった。
 日教組といえば「教え子を再び戦場に送らない」を合言葉に結成された日本最大の教職員組合である。ぼくが組合員であったころには、日の丸・君が代には組合として反対の姿勢を貫いていていた。しかし、国旗国歌法制定後その姿勢は少しずつ揺らいできたように見受けられた。そうなるとともに、現場の教員も抵抗する姿勢を見せなくなってきた。組合の運動方針も正面切って戦うことを避けるようになった。それでも体を張って抵抗する教員は、全体の中では浮き上がる存在となり、しまいには迷惑がられ、組合からも切り捨てられる(支援されない)ようになってしまった。
 とはいえ、日教組の組合員なのだ、署名ぐらいはしてくれるだろうと心許して近づき、気安くお願いした。しかし、「いや、ちょっと」といって断られる。手を振って避けられる。一人や二人ではない。その一角にいる人々で署名に応じてくれたのは、「沖教祖」の旗のもとにいた組委員だけだった。
 「一緒に戦ってくれ」と言っているわけではない。「君が代・日の丸に反対の姿勢を貫け」と頼んでいるのではない。最高裁に提出する署名をお願いしているだけなのだ。思わず「日の丸・君が代には反対していたんじゃなかったのか」と言ってしまった。返ってきた「賛成はしていない」との言葉は虚ろだった。
 世代が変わってしまったからとの口実はいらない。ただ、ぼくは彼らを「労働組合員」とは呼びたはくない。
 自分自身、それほど立派な生き方をしているわけでない。それまで当たり前だったとこを続けていたにすぎないのに、いつの間にか突出してしまったというだけだ。だから偉そうなことは言えないが、組合員であることをもう一度考え直してもらいたいと強く思った。

 この日、組合の分裂時に共に活動した古い仲間に会えた。懐かしさに誘われて、結局デモ行進にも加わった。途中交差点で、警官に「さっさと渡れ!」と怒鳴られ、「心臓が悪くて早く歩けないんだよ」と言い返しながらも、最後まで歩き通せたのが収穫だった。
(2018.9.24)



続 6.30リバティ・デモ

 おしつけないで!6.30リバティ・デモ

6.30リバティ―・デモはよかった
開始時間になんとか間に合ってよかった
勇気づけられ、親しみが感じられた澤藤弁護士の話がよかった
参加者の数が多すぎず、かといって少なすぎずよかった
夜だから行くのはきついと思っていたが、炎天下よりはかえってよかった
集会・デモが和気あいあいとした雰囲気でよかった
知り合いがたくさんいてくれたのがよかった
青山通りと表参道を鳴り物入りで楽しく歩けたのがよかった
そろいのTシャツがよかった
右翼の攻撃がなくてよかった
あっても参加しただろうけど、なくてやっぱりよかった
替え歌が面白くてよかった
おっきな声で強制反対を叫べたのがよかった
デモコースがちょうどいい長さでよかった
「おしゃれな店」や「すてきなお姉さん・お兄さん」にアピールできたのがよかった
弁護士さんが最後まで一緒に歩いてくれたのがよかった
高野長英隠れ家跡が近くにあることがあとでわかりよかった
日の丸・君が代強制に反対するたくさんの人たちと歩けたのがよかった
青山通りから原宿方面に向けてのコースが下り坂だったのでよかった
原宿駅に向けて少しだけ登りがあって焦ったが、なんとか登りきることができてよかった
デモはパスしようかと考えていたし、もし参加しても途中で脱落になると思ったけれど、最後までみんなと歩き通せてよかった
解散地点で配られた陳述集がよかった
リバティ―・デモ、またやりたいと思えてよかった

よくない! 日の丸・君が代強制は
(心不全のデモ参加者)

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見上げればケヤキの枝葉黒々と
リバティ―・デモの原宿を行く

青山の街にとどろけ朗らかに
強制反対・処分撤回

名のみ知る店舗吹きぬく青風となって届けん
われらが主張

(2018.7.1)
※「6.30バティ・デモ」は「つれづれなる風」にあります。
※当ページ、ならびにトップページのデモ行進の写真は、以下のサイトの運営者より(事後)承諾を得て使用させていただきました。ありがとうごさいました。
http://www.mkimpo.com/diary/index.html



「国営昭和記念公園」を歩く
−過去へのタイムスリップ−


 VR(仮想現実)というここにはない世界を体験(?)できるITグッズがある。あくまでも視覚的にだが、想像力の枯渇につながるのではないかと余計な心配もしてしまう。それはともかく、想像力なしでは体験できないツアーに参加した。

 「『国営正歩記念公園』を歩く」というツアーが5月19日(土)にあった(チラシ表・裏 写真右上下)。主催は砂川平和ひろば「砂川の大地からとどけ平和の声」実行委員会となっている。副題(側題?)に「砂川闘争の現地を歩く2018」とある。
 もちろん公園内を散策して花や風景を楽しもうというのではない。もともとここは米軍立川基地があった場所であり、更にそれ以前には立川陸軍飛行場があった。その痕跡をたどり、現在の公園内で旧施設との位置関係を体感しようという目的である。目的の後半は言うに及ばず、前半だって想像力なしに成り立たない(※ツアーの題名の「国営昭和記念公園」にカギ括弧がついていることにも想像力が必要だろう)。
 場所が近いので、自転車で現地まで赴く。直前に山友達から連絡があり、現地で合流することになった。この頃、自転車ですらきつく感じられるようになったが、集合時間5分前ぐらいには到着し、友人とも合流した。
 ツアーの内容がマイナーな割には大変な人数だ。50人以上はいただろう。数日前に新聞で取り上げられたこともあるのだろう。ツアーは自体は徒歩だ。
 最初に主催者の福島さんからのあいさつと説明があり、ツアーの総合案内役で砂川在住の張さんから本企画の目的について解説があった。この後、4か所ほどの目的地を目指し、ぞろぞろと歩いて回ることになる。しかしその「ぞろぞろ歩き」が難点だった。
 自分の体力でも充分ついていけるとの事前の判断は、大きく修正しなければならなかった。みんなが普通に移動しているにもかかわらず、自分一人だけが(実際には、一緒についてくれている友人ともども)どんどん遅れていく。要所要所にガイドが立って案内してくれるが、目的地に到着した時にはすでに解説が始まっている。その繰り返しの挙句、目的地3か所目でついに力尽きて自らリタイア。用事があるからと言い訳して(実際に、友人は用事かあったから、半分は本当)、先に帰ることにした。
 こんな状態だったので、以下は、主には半分以上当日いただいた資料に基づき、残りの半分ぐらいは現地での説明をもとに書いたものです。

 「こもれびの丘」というゾーンでは、昔の砂川地区にも見られたような古い農家と畑が再現されている。ここでは、福島さんとレイクランド大学日本校准教授のトンプキンスさんがお話をされた。
 この公園ができる前は広い平地だったところ(それゆえにこそ飛行場として目をつけられたの)だが、今は公園として盛り土がされ、丘や池といった日本的な風景が広がっている。 丘の中には、基地内の建物の瓦礫や、工事出た土などが埋められている。この虚偽の風景を引きはがして、昔の姿を頭の中で浮かび上がらせるのは、容易なことではない。
 少し歩くと米軍基地内で娯楽施設(B/X=デパートや映画館)があったところに案内された。もちろんその痕跡などはなく、あたりは高い樹木に囲まれた散策路に過ぎない。しかし、その木立にさえぎられている向こう側には、自衛隊立川基地があるのだ。米軍基地内に2つあった映画館は、もともと陸軍基地にあった飛行機の風洞試験用の建物だったそうだ。

 公園内のシンボルツリーとなっている大ケヤキのそばで張さんやトンプキンスさんからお話を伺う(写真右上)。張さんからは、この公園の設計担当者である半田真理子さんのことが語られた。樹齢100年のケヤキは陸軍基地の頃からあったものだそうだ。枝を大きく広げ、天に向かって伸び続け、2つの基地を間に挟んで生き延び、100年。これからも流れる去る周囲の歴史を、泰然と見続けていくのだろう。
 このケヤキと対をなすように、北側には大きなヒマラヤスギもある。これも、米軍基地の頃にはあり、移植されていない限り、もっと以前からのものかもしれない(聞き逃した)。
 トンプキンスさんは米軍基地時代の米兵やその家族の生活を、たくさんの写真を交えて話してくれた。米兵や家族は、アメリカ本土と同じような(そのころの日本人の生活と比べると)かなりリッチな生活ぶりだったらしい。

 昼食をはさんで(全体の予定は、午前10時から午後3時までという長丁場だった)、残堀川沿いの橋のたもとで、楢崎茂弥さんによる陸軍航空工廠についての説明(写真右下)。残存する煙突の説明とともに、「多摩研」という言葉が飛び出す。「多摩陸軍技術研究所」、ロケット戦闘機や毒ガス弾、無線誘導弾などを研究・開発していたようだ。その言葉はぼくの中で「陸軍登戸研究所」(街をわたる風「NOBORITO 1945 ―8月15日−(神奈川県川崎市)」参照)を否応なく連想させる。
 そして自宅に戻ってからのことだが、武蔵村山市の「東京陸軍航空学校」(昨年参加させてもらった楢崎氏のフィールドワークで初めてその存在を知った)が芋づる式に浮かび上がった。「東航」からは、鹿児島県の知覧を経て特攻に飛び立って行った20歳以下の若者がたくさんいた。2年前の広島・長崎・知覧への旅がよみがえる。
 登戸研究所が、知覧特攻基地が、イメージの中でジグソーパズルの残ったコマがはめ込まれるようにつながってきた(街をわたる風「広島・長崎・知覧」参照)。これまでの自分の体験内容が、立川基地のフィールドワークで関連付けられたような気がした。これは偶然や、単なるひらめきではない。かつての「皇国日本」は、すべてが戦争=軍隊に収斂された国家だったのだ。その反映として、自分の中ですべてが繋がるのは当然のことだ。そして、その頂点には天皇がいた。
 昭和記念公園は昭和天皇御在位五十年記念事業の一環として開設された公園である。公園園内には昭和天皇記念館もある。軍国日本を打ち負かし、その上に成立した米軍基地、その拡張工事に反対した砂川闘争、そしてそれらを土に埋め込み天皇を記念する公園が広がる。隣には自衛隊基地まで併設して。何とも皮肉な光景ではないだろうか。

 4番目の見学は、残堀川をはさんで西に広がる広大な公共用地だ。すでに法務省管轄の国際法務総合センター=刑務所が建設されている。来年には竣工予定という。案内人は中央大学大学院の学生である。
 かつてここは近隣の村の入会地としての雑木林が広がっていた。今でも残堀川の対岸の一部にはその森が見られる。残堀川も自然のままにくねって流れていた。しかし、陸軍・米軍の基地建設により都合よく流路が変えられてしまい、想像力によってしか過去の風景を見ることはできない。唯一の救いは、直接体験がない若者による過去の発掘であり、現代との対比である。

 ぼくにとっての今回のフィールドワーク体験は、ここまでだった。歩くことに疲れはててしまったし、帰りのことを考えると、これ以上参加して立ち続けることは限界だった。はじめに書いたように、友人の都合もあり、あいさつをして辞去させてもらうことにした。
 最後まで参加できなかったのは残念だが、過去の体験ともリンクするいい経験ができたと思っている。
(2018.5.19)



何が私をこうさせたか

 季節 昨年の10月、友人数人を乗せ山梨に出かけた。金子文子のフィールドワークをするので連れていけというのが友人の依頼だった。
 金子文子という名は知らないではなかった。関東大震災の時のどさくさ(社会主義者や朝鮮人が権力や差別的な民衆によって虐殺された)で逮捕・拘留され、処刑こそされかったものの、死に至らしめられた無政府主義主者であることぐらいは何となく知っていた。しかし、その人の本は一冊として読んだことはなかった。
 フィールドワークにはさほど興味はなかったが、ブドウを仕入れに行く自らの都合もあって、山梨行に同意した。行先は山梨県北都留郡丹波山村小袖地区と同県山梨市牧丘町杣口であった。小袖地区は雲取山や七ツ石山への登山口、牧丘町はブドウの産地とあって、自分にとってもなじみのある所ではあった。

 山梨行も無事終わって年も明け、足を骨折して動けなくなってからのこと、たまたま新聞紙上で金子文子の『何が私をこうさせたか』を目にし、読んでみようかという気になった。底本の『何が私をこうさせたか―獄中手記』(春秋社)は1931年に出版されたもので、旧仮名遣いで記されたものであったろうし、小さな活字でぴっちり埋められたものであったろう。しかし今回手にしたのは、昨年12月に出版された岩波文庫版(だから紙上で紹介していたのだろう)で、新仮名遣いで、行間もゆったりとってある読みやすいものだった。
 「獄中記」というからには、監獄の生活や、自らの主義主張を述べたものであろうと予想していたが、そうではなかった。全体の3分の2ほどは、幼いころから17歳までの生い立ちで占められている。
 獄中手記とあれば、自らに都合の悪い来歴などは書かないであろうから、幼少期の記述が中心になるのはわからないではない。だがそのゆえに、幼少時から恵まれぬ環境に置かれ、いじめられ、虐げられ続けてきた文子の半生(22歳までの全生涯と比すれば大半以上)がよくわかるのである。

 横浜に生まれた文子は両親の離婚により、7歳の時、丹波山村小袖地区で暮らすことになる。その地がこの日の第一の目的地だ。
 我々の車は青梅街道をひたすら西に進む。青梅の街を通り過ぎると奥多摩渓谷に沿って道はうねうねと登り続ける。小河内ダムの湖畔を走り、山梨県北都留郡丹波山村鴨沢に至る。鴨沢の一つ手前の奥多摩町留浦までが東京都だ。鴨沢から、青梅街道を折り返すようにして右側の林道(といってもアスファルト舗装された道)に入る。道はさらに登り続ける。そして傾斜が緩み、わずかに下り始めるあたりが小袖乗越だ。小袖と鴨沢の中間点からは小袖よりの地点である。
 ここには雲取山への登山道入口がある。ぼくにとっては通いなれた道だ。小袖乗越近くの駐車ができる広場には、すでに何台もの登山者のものとみられる車が停まっている。都内ナンバー以外の車も多い。「2017年の山」(標高と西暦が一緒)ということで、雲取山に注目が集まっているのかもしれない。かつてはなかった公衆トイレもできていた。登山者とひとことふたこと言葉を交わす。
 ここから鴨沢まで徒歩で下る小道が延びている。その昔、7歳の文子もこの道を下って小学校に通ったのであろう。フィールドワークで来た仲間は写真撮影などしている。
「さていよいよ学校であるが、学校は鴨沢と呼ぶ小さな町のはずれにあった。尋常科だけで、児童は六、七十ぐらいはあったろう。(中略)
小袖からは寂しい山道を一里ばかりも離れていたが、冬になると雪がひどいので、男の子も女の子も竹の皮で拵えた靴見たいな物を履いて、手拭ですっぽりと頬冠りをして、毎日毎日同じ道を往復するのだった。」(『何が私をこうさせたか』以下同じ)

 横浜でのように、無籍者であることで苦労することはなかったが、ここでは貧困のために文子は教師からひどい差別的扱いを受ける。

 再び舗装路に戻り、緩い下り坂をさらに3,4分車を走らせると道はすぐ行き止まりになる。斜面にへばりつくように十戸ほどが軒を連ねる部落がある。ここが小袖部落だ(写真)。小袖には、母の連れ合いである小林という男の実家がある。文子は秋から春の約半年間、小林の親戚にあたる家の小屋で過ごした。
「部落はかなり勾配の急な山裾の、南向きの日当たりの良い谷間にあった。田というものは一枚もない。あるのは山と、それを開墾(きりひら)いた畑とだけであった。」

 フィールドワークの呼びかけ人であるW氏が車を降り、近くの畑で作業していた老婦人を見かけ声をかける。その人は、たまたま文子となじみのある方であった。運も味方したが、こういう時は物おじしない性格がものをいう。
 どん詰まりのスペース−車両が方向転換するための場所に車を停め、その方のお宅にみんなでお邪魔することになる。
 その方はお名前を「小林」という。この部落のほとんどの家が小林姓であり、みな親戚筋にあたるそうだ。現在はどうであるかはわからないが、かつては他所から養子縁組でもらわれてきたり、嫁いできたりということがけっこう頻繁に行われていたらしい。そのため、文子親子もすんなりこの地に溶け込めたのであろう。

 フィールドワークが目的の面々は小林さん宅に上がり込み、文子にまつわるあれこれを聞いていたが、その時にはあまり知識もなかったぼくは上の空であった。文子の生涯よりは、雲取山から東に派生する石尾根上のピークである七ツ石山、その山頂近くにある七ツ石神社の祭日の賑わいのこと、それにまつわる(七ツ石山から小袖方面に少し下ったところにある)「堂所」という昔の「ばくち場」についてのお話のほうが興味深かった(「山のアルバムBN7−鈍足の効用−」参照)。そのことをしつこく聞くぼくのことを、フィールドワーク派は迷惑がっていたようだ。
 小林さんよると、文子の足跡を訪ねて人が来たのは久々であったとのことであったらしい。ご自身もその話をするのがけしていやではない様子で、突然の訪問者を温かく迎えてくださり、込み入った質問にも丁寧に答えてくださっていたのがありがたく、心に残った。

 この地で文子の腹違いの妹・春子が生まれる。
「早春のある日、私の家には子供が生まれた。小林の家のお婆さんは大喜びだった。そして春生まれたというの『春子』と名をつけ、初子のお祝いをした。」

 しかし、この春子との楽しい日々も長くは続かない。母の実家がある牧丘の叔父が文子たちを迎えに来たのだ。しかし小林の実家が春子を手放さず、文子と母は泣く泣く春子と別れることとなる。村のはずれまで見送ってくれた大家の末娘の雪さん(お話をしてくれた小林さんは、この雪さんと近い関係にあった)に背負われた春子と母親が別れるシーンは、読むものに強烈な印象を与える。
「母の足はどうしても進まなかった。別れて四、五歩したかと思うと母はふらふらと後ろへ引き返した。そして雪さんの背から子供をおろして、路傍の土手の芝生の上に腰をかけ、まだ眠っている子を揺り起こして、しゃくりこむように泣きながら乳首を無理に子供の口に押し込んだ。そして母は、乳を飲んでいる子の顔を撫でたり、頬ずりしたりしながら、側で泣きながら立っている雪さんに、『たのみますよ、雪さん、頼みますよ』と、今までにもう幾度となくいった同じ言葉を繰り返した。」

 この後の文子の身柄は山梨・牧丘→朝鮮・芙江里→山梨→静岡・浜松→山梨と目まぐるしく移り替わる。どこに行っても文子にとっての充足の地はない。むしろ辛く、思い通りにならないことばかりが続く。
 特に父方の祖母が住む朝鮮・芙江里に引き取られていた7年間は、虐げれ、苛め抜かれ、蔑まれ、搾り取れ、罵倒され、小突き回され続けるという、肉体的にも精神的にも特に辛酸をなめた場所だ。それは、人間不信に陥ってもおかしくないような体験の連続であったようだ。
 げんにこの時期、文子は(寸前に思いとどまったが)自殺を図ろうとしている。暗澹たる現実の中で、死だけが唯一の光明あった。
 いびられ続け、食事も与えられず、立ち上がることもできず倒れ伏した文子。
「ぼおっと気抜けした心のどこかに『死』という観念が、ふいと顔を出した。
『そうだ、いっそ死んでしまおう……そのほうがどんなに楽かしれない』
こう思った瞬間、私は全く救われたような気がした。いや、全く救われていた。
私の身体にも精神にも力が漲ってきた。萎えた手足がぴんとなって、わけもなく私は立ち上がれた。空腹などは永久に忘れてしまったようでもあった。」

 入水を図ろうする文子。しかし、寸前で思い止まるのである。
「突然、頭の上でじいじいと油蝉が泣き出した。
私は今一度あたりを見まわした。なんという美しい自然であろう。私は今一度耳をすました。
何という平和な静けさだろう。
『ああ、もうお別れだ! 山にも、水にも、石にも、花にも、動物にも、この蝉の声にも、一切のものに……』
そう思った刹那、急に悲しくなった。
(中略)
そう思うと私はもう、『死んではならぬ』とさえ考えるようになった。そうだ、私と同じように苦しめられている人々と一緒に苦しめている人々に復讐をしてやらねばならぬ。そうだ、死んではならない。」

 祖母側の都合で山梨に帰された文子は、実父の住む浜松にやられ、そして再び山梨に戻るという変遷の末、17歳のとき単身東京に出る。

 ここまでが、獄中手記の三分の二にあたる。獄中で何の資料も与えられぬままに、朴烈と暮らし始めるまでの19年間を書き綴れたその精神力と記憶力に驚嘆する。ふと、学生時代に読んだ永山則夫の『無知の涙』が重ね写しになってくる。永山は牢獄の中で(こそ)学び続けることができたが、文子がもっと生き続けていればと考えてしまう。現実的にも空想上もあり得ないことだが。

 小林宅には2時間近くお邪魔してしまった。次の目的地での約束もあり、小林さんにお礼を言って小袖を後にする。もと来た鴨沢まで下り、青梅街道を塩山市方面に車を走らせる。目的地は山梨市牧丘杣口だ。この道を文子も辿ったのであろうか。
 青梅街道は、すでに丹波川と名を変えた多摩川に沿って更に上り続け、柳沢峠でピークとなる。柳沢峠を越えると、道は一気に甲府盆地に滑り込む。途中フルーツラインに入り、文子が何度も移り住んだ牧丘を目指すのであった。

 文子が(予審判事に命ぜられたとはいえ、)死を自覚せざるを得なくなった時この手記を書いたことに思いをはせながら、これを書く。
(2018.2.7)

これ以前のデータは「街をわたる風・二の蔵」に保存してあります。


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