街をわたる風 二の蔵






保存データ:2018.5.182018.8.10
これ以降のデータは街をわたる風 三の蔵をご覧ください。


続・ダイヤモンド富士?

 季節行事というわけではないが、冬至が近づくと何となく落ち着かない。大掃除ではない。高尾山から眺めるダイヤモンド富士。日没が最も南寄りになるこの日、富士山山頂に沈む太陽が高尾山から眺められる。太陽が山頂に沈むときの最後の光芒が、ダイヤモンドのように光輝くのでこの名がつけられている。
 山に興味のない人には、「なんだ、それ?」と言われてしまうかもしれないが、愛好者にとってはクリスマスより気になる日だ。数日前から気象情報に注目し、前日ぐらいからは雲の動きに一喜一憂する。ぼくも何年か続けて出かけたことがある。雲がじゃまして一日で果たせなかったときなどは、翌日にも出直したことさえある。
 2年前までは、そのようにして高尾山に出かけていた。だが、高尾山ですら登るのがしんどくなった昨年からは、近場ですませている。この時は期日を逸してしまったが、昭島の段丘の上から眺めた(「つれづれなる風・一の蔵」参照)。今年はどうしようか考えていた。

 グーグルマップで富士山の白山岳にポインティングし、そこから高尾山まで直線を引く。さらにその直線を北東方面に延長させる。この線上にある見晴らしのいいところがダイヤモンド富士のビューポイントというわけだ。誰でも入れる見晴らしのいいビルや丘があればいいのだが、なかなか適地がない。高いビルがあるところは、周りにも同じようなビルがあり、視界を遮っている。モノレールの軌道上は好適地だが、走っている車両からだと狙いが定めにくい。駅ならばゆっくりカメラも構えられるであろうと直線をたどるが、ここぞというところに駅はない。
 直線上からは少し外れるが、大規模ショッピングセンターが目にとまった。近頃は、屋上に出られるビルはあまりない。事故や自殺を未然に防止する意味で立ち入り禁止にしているのだろう。このビルも屋上を開放してはいないようだ。どこかの窓越しに眺められないかと、ストリートビューで仰ぎ見る。しかし富士山の見える方角は無味乾燥な壁で囲まれているだけで、のぞけそうな窓は見当たらない。窓はあってもバックヤードのそれのようで、お客が入れる場所ではなさそうだ。
 巨大な建物の周りには鉄筋の非常用階段が備え付けられている。見晴らしは良さそうだが、ここには入れないだろう。ふと見上げた建物の上部に、鉄筋がむき出しの空間がパクリと口を開けている。そう、ショッピングセンターの駐車場だ。これはおあつらえ向きだ。車で来なくても、駐車場なら入り込めるだろう。

 さっそく出かけてみた。おしゃれでスマートな店内。とにかく広い。1階と2階が売り場。3階から5階が駐車場になっている。売り場はパスして、直接駐車場に向かう。平日のせいもあって5階の駐車場は開放されてない。しかたがないので4階の駐車場に出る。停まっている車列の間を抜け、目指す方角に進む。窓というよりは、建設途中の建物の未着工区域のように、大っぴらに外界に開けている空間。そこからは、山が遮るものなしに望める。
 この日は気温が高かったので、山々はいくぶん霞んで見えたが、日没近くなればシルエットがはっきりしてくるだろう。まだ日没までには時間がある。ここは、時間をつぶすにはおあつらえ向きのショッピングセンターだ。階を下り、初めての売り場に足を踏み入れる。いろいろと目新しい商品が多い。値段もそれほど高くはない。時間つぶしのつもりが、いつの間にか商品に集中てしまった。気が付けば日没までにあと数分しかなかった。
 ところが、勝手のわからぬ広い店内。順路の表示はあるので迷うことはないが、すごろくのように上がりまで行かないと出られない。「途中下車」はできるのだろうが、初めてのこととて、どこをどう行けばいいのかわからない。セルフサービス方式だから店員も少ない。聞くに聞けない。心臓の調子が悪く、早く歩くこともできない。しかたなく最後まで歩きとおした。しかも上階の駐車場に行くには、いちど1階まで下りて、そこから4階に行くエレベーターに乗り換えねばならない。
 「郷に入らば郷に従え」で、回りくどい動きをして駐車場に出る。すでに太陽は山々の陰に隠れていた(写真上)。オレンジ色に染まった空のもと、山並みがシルエットになって、まるで眠りについているようだった。
 蛇の道は蛇、駐車場の片隅には三脚を片づけている同好の志がいた。彼は見事獲物を手に入れられたのだろうか。間抜けな自分にとってのわずかな救いは、山頂に雲の塊がかかっていたことだった。
(2016.12.20)

追記 :  
 21日、冬至の当日、再び同じ場所に出かけてみた。高曇りだが、低い雲は見当たらない。風もなく暖かな日より。前日と同じで山並みは霞んで見えるが、日没時にはコントラストがえられ、大きな影響はないだろう。期待が高まる。
 鬼門の売り場には近づかず、早々に駐車場へ行く。すると、すでに先客が2人いる(写真中上)。話しかけてみると、ひとりは昨日ここにいた「三脚氏」だ。やはり昨日は山頂に雲がかかり、望むような写真は撮れなかったと言う。心の狭いぼくは、少しほっとした気持ちになる。
 日没時刻が刻々と近づく。山頂付近に雲はないものの、その後方の高雲が太陽の光を拡散させている。これだと、山の端に太陽が隠れる直前の一瞬の輝きと、日没後の残照のシャープさが失われがちになる。そんな野次馬の思惑など無関係に、太陽はするすると富士山の陰に隠れた(写真中下)。期待したようなダイヤモンドの輝きもなく、残照の光芒も得られず。
 これまでの経験では、富士山を雲が遮ってさえいなければダイヤモンド富士の映像は撮れた。しかし今回は、富士山の前方や山頂に雲はなかったものの、後方の雲が仇をなした。
 冬至のこの日の教訓は、以下のようなことだった。ダイヤモンド富士の画像を得るためには、太陽と富士山、そしてカメラの間に遮蔽物(ほとんどが雲)がないのが大前提になる。当たり前といえば当たり前のことだが、改めて再認識したことである。
 後方の高曇りの雲のおかげで、そのぶんきれいな夕焼けが見られた。まだ青みの残っている上空からオレンジ色に染まった空へのグラデーションは、負け惜しみではなく、素敵なものであった(写真下)。
(2016.12.21)






広島・長崎・知覧

 5月20日(金)から29日(日)までの10日間、広島と九州の各地を巡った。以下は、そのうちの広島・長崎・知覧についての個人的な記録である。
 広島については、特にオバマ米国大統領が来る前に行っておきたかった。米国大統領の後塵を拝するのも嫌だったし、混乱に巻き込まれるのもまっぴらだった。

【広島】
 広島は初めてではない。今から35年以上前に訪れたことがある。1977年8月、14年ぶりの原水爆禁止統一世界大会が開かれたその年、ぼくは広島に出かけた。新幹線はすでに博多まで開通していた。しかし、広島に行くのに新幹線を使いたくなかった。被爆した当時とは全く同じではないが、在来線を使いたかったのだ(今回は、広島・長崎を含め新幹線を利用した)。
 東京を夜中の11時台に出る夜行列車に乗り、大垣で乗り継ぎ姫路まで、姫路からは岡山までであったか、はっきりした記憶はない。その後は広島まで、すべて各駅停車だった。とにかく4本ぐらいの列車を乗り継いで、広島に立ったのは翌日の午後。
 8月の暑い日だった。広島平和記念資料館を見学し、8月6日の平和記念式典にも立ち会った。個人で行ったため、統一大会に参加する機会も資格もなかった。その代り、広島大学にある爆風によって変形した鉄製の扉(今回の訪問で見た旧陸軍被服廠であったかもしれない。)を見たり、ふらっと立ち寄った墓地で8月6日の命日が多いことを改めて確認した記憶がある。
 今回は2度目ということで、もう少し違った角度から広島を見られないものかと思案したものの、特段思いつくことはなかった。人とのつながりの中で被爆者の体験談を聞く機会を得ようにも、あてもなく探せるものでもない。広島在住の大学時代の仲間に連絡を取り、原爆ドームや資料館以外で行ってみるべきところを紹介してもらうことにした。
 始めは宿泊先に近い袋町小学校平和資料館に出かける(写真@)。今は新しい校舎に建て替えられているが、一部を被爆当時の状態で保存し、被爆遺品を展示している。木造の校舎がすべて倒壊・全焼した中で、唯一鉄筋コンクリート製だった西校舎のみが外形をとどめた。平和公園から東側、心地から500mほどのところにあり、被爆直後、被災者の救護所となったところのひとつだ。漆喰の下や黒板の裏側から、当時被災者の記した伝言(身内の安否を尋ねるものや、知人の消息を伝えるものなど)が見つかっている(写真A)。
 資料館で旧日本銀行広島支店や本川小学校平和資料館にも行ってみるように勧められる。
 旧日銀広島支店は袋町小学校から徒歩で1、2数分のところにある(写真B)。頑丈な造りで、原爆の爆風にも建物自体は倒壊せず、現在までその姿を保っている。内部も見学したが、これは復元されたものだろう。隣に頼山陽史跡資料館がある。この資料館は広島支店が爆心地側に建っていたために全壊を免れたそうだ。
 原爆ドームを見学してから、相生橋を渡って本川小学校に行ってみる(写真C)。本川小学校は平和公園の西側、爆心地から400mほどのところにある。爆心地に最も近い小学校だった。鉄筋コンクリート3階建ての校舎であったため建物だけは残ったが、教職員と児童の400名以上の命が一瞬にして奪われた。ここもまた被爆直後は救護所となり、校庭では多くの亡くなった被爆者が焼かれたそうである。校舎の一部は平和資料館として現在も保存されている。1階では溶けた瓦やビン、焼けて曲がった三八式歩兵銃(写真D)などが展示されている。
 再び平和公園に戻って広島平和記念資料館に行く。園内には警官の姿が目につく。オバマ大統領が来るのでその事前警備なのだろう。資料館は東館が改装中で見学はできず、本館のみの見学になった。
 平和資料館は前回広島に来た時にも見ているので、駆け足の見学になった(それでも、オバマ大統領よりははるかに長時間をかけた)。いつもここにきて思うのは、なぜ被爆者の証言ビデオが最後のほうにあるのかということ。証言を聞いてから展示内容に触れたほうがどれほど実感を持てるかわからない。展示物を巡り歩いて疲れ切った見学者が、はたして帰りがけにビデオを見る気になるだろうか。その意味で言うと、次に訪れた国立広島原爆死没者追悼祈念館は見学に値する場所だ。
 広島原爆死没者追悼祈念館本は、平和資料館側から原爆ドーム方面を見た場合、原爆死没者慰霊碑の右側に道路を挟んで建っている。資料館が1階部中空の2階構造(写真E)になっていて目につきやすい反面、祈念館は地下2階の埋没式になっている(写真F)ため目立ちにくい。地下2階が追悼空間になっており、地下1階が情報展示・体験記閲覧室になっている。閲覧室では体験記ばかりでなく、証言映像や資料映像も見ることができる。しかもここは入場無料なのだ。多くの人に訪れてもらいたい場所である。
 ちなみに、広島・長崎の体験記・証言映像・朗読音声は以下のサイト(国立広島・長崎爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク)でも検索・視聴ができる。
http://www.global-peace.go.jp/index.php

【長崎】
 長崎は初めての訪問であった。というより、九州・沖縄にはこれまで足を踏み入れたことはない。だから地理的な位置関係も頼りなかった。長崎に行けば原爆の遺跡があまたあり、探さなくとも原爆資料館にはたどり着けるものだと思っていた。しかし長崎も広島と同じく開けた地方都市のひとつでしかなく、ひとめ見ただけではここが被爆地だとはだれも思わないだろう。広島よりはいくらか規模の小さな都市で、坂が多いのが特徴といえる。広島と同じく路面電車が走っている。
 そもそも下車駅は長崎と思い込んでいた。それが大きな間違いだとわかったのは長崎に向かう車内。宿泊先(長崎カソリックセンター)が浦上であることに気づき、その周りに浦上天主堂や平和公園があり、近くに原爆資料館があることが判明。あわてて浦上駅で降りる。
 カソリックセンターの正面に浦上天主堂はある(写真G)。爆心地はこの右手(南西)500mのところ。原爆によって天主堂は破壊され、北側の鐘楼は近くの小川に落ちてしまい、そのまま被爆遺構となっている(写真H)。
 浦上での2日目、近くの如己堂と長崎市永井隆記念館に行く。永井隆については名前ぐらいしか知らなかった。しかし長崎では、原爆被災者で自らも負傷しながら懸命の救護活動に従事した長崎医大(現長崎大学医学部)の医師として、また最期まで平和を希求した人として、知らないものはない大きな存在である。如己堂とは永井博士が晩年に過ごした家である(写真I)。「長崎の鐘」「この子を残して」など著作も多い。
 長崎平和祈念像(写真J)は、如己堂から徒歩で5分ぐらいの平和公園にある。平和公園内には浦上刑務支所跡がある(写真K)。ここは爆心地から100mの位置にあり、受刑者・被告人・職員ら130人以上がいたが、全員死亡した。その中には中国・朝鮮の人たちも多い。公園内には本島等元市長の筆による中国人原爆犠牲者追悼碑がある(写真L)。また、園内には海外の国・都市から寄贈された平和にちなんだ記念碑やモニュメントが設置されている。ソビエト社会主義共和国(写真M)を初めとした社会主義圏の国からのものが多いように感じたが、設立当時の社会情勢を反映したものだろうか。当然のことながら(?)アメリカ合衆国のものはない(ミネソタ州セントポール市の作品は展示されている)。
 平和公園を出て浦上川を渡り城山小学校平和祈念館に行く(写真N)。校舎のある地平までの階段が長くきつい。息を切らせて祈念館にたどり着く。城山国民学校(現在の城山小学校)は爆心地から500m西方、最も爆心地に近い小学校だった(写真O)。鉄筋コンクリートの校舎は大きく破壊され、当時構内に疎開していた三菱重工長崎兵器製作所の職員や動員学徒130人以上が亡くなったとされている。
 平和祈念館は、被爆にあった校舎の一部(階段棟)を保存して利用している。祈念館内部には、当時の様子を伝える写真や炭化した木煉瓦(もくれんが)(写真P)など原爆にまつわる品々がある。
 再び川を渡り返し、爆心地に向かう。爆心地のある原爆公園は平和公園の南、道路をはさんだ反対側にある。爆心地には原子爆弾落下中心碑(写真Q)がたてられている。その右側には浦上天主堂の遺壁がある。ここから3階分ぐらいの階段を上り(屋外にエレベーターが設置されているのでそれを利用)長崎原爆資料館の入口にたどり着く(写真R)。
 広島では「平和記念資料館」と名付けられているものが、長崎では「原爆資料館」と命名されている。どちらにも名前にかけた思いがあるのだろうが、個人的には「原爆資料館」のほうが実態に近いように思われる。もっと実態に即して言えば「被爆資料館」ということになるのだろうが……。名前の付け方ひとつにしてもその姿勢が問われ、それによって展示の内容・方法・規模なども異なってくるのではないかとの思いがよぎる。
 ちなみに、広島平和記念資料館は、8月6日の被爆状況のパノラマによる再現→原爆による被害状況と被爆遺品の展示→救援・救護活動→市民による被爆の絵→証言ビデオ→東館の仮設展示(被爆までの広島、原爆の開発から核時代の現状)→平和へのメッセージとなっている(以上は本館、東館は改装中)。長崎原爆資料館は、被爆前の長崎と8月9日→被爆時の惨状と被爆遺品の展示→救援・救護活動→証言ビデオ→戦争と核兵器の歴史となっている。両者の大まかな流れはほぼ同じだが、初見であったせいか、個人的には長崎の資料館が特に印象深かった。
 長崎原爆資料館は地下構造になっている。いったん回廊をたどって地下2階まで下りる。歴史をさかのぼるという構成だ。受付のところに丸木位里・俊さんの原爆の図「第15部長崎」が展示されている。長崎の資料館にもパノラマがある。そこに動画を直接投影する方法で、原爆による破壊と影響を伝えている。
 原爆による被害を伝えるコーナーでは、被爆者である山口仙二さん(元長崎原爆被災者協議会会長 日本原水爆被害者団体協議会代表委員 故人)の写真が展示されている。焼けただれてケロイド状になった体をあえて晒しているその姿からは、原爆の恐ろしさとともに、反核平和への強い思いが伝わってくる。救援・救護活動のコーナーには永井隆博士についてのスペースが設けられている。
 被爆者の訴えのスペースでは被爆者の証言を視聴することができる。山口仙二さんはもちろんのこと谷口稜曄(すみてる)さん(日本原水爆被害者団体協議会代表委員)の証言も視聴した。谷口さんもまた被爆によって背中全面におったやけどの写真を公開している。反核・平和への希求は山口さんに劣らず強い。また、ここでは日本人ばかりではなく中国・朝鮮から連れてこられた被爆者の証言もある(広島に同様の証言ビデオがあったかどうか定かではない)。
 原爆資料館を出てそのまま進めば、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に自然にたどり着くよう設計されている。広島が全く別の建物であることと比較すると、一体的に体験できるメリットがある。ただし、広島と同様、資料館の入場者数と比べると祈念館は圧倒的に少ない。特にツアー客や外国人観光客にその傾向が強い。入館者はここでは追悼空間のほかに平和情報コーナーとして被爆者の証言を視聴できる。
 翌日、山里小学校と長崎大学医学部原爆医学資料展示室を見学する。山里小学校は時間外であったため防空壕(当時、ここでたくさんの人たちが亡くなっている。)や永井隆博士が建立した「あの子らの碑」(写真S)を見学できたのみであった。原爆医学資料展示室では、原子爆弾の医学的影響を示す文献や写真・資料などの整理・保存にあたっている。長崎大学医学部の前身長崎医科大学は爆心地から500mの位置にあり、深刻な被害を受けた。生き残った大学関係者は被災者に対する懸命な救護活動に従事した。その中の一人が永井隆医師であり、長崎大学名誉教授西森一正氏である(西森氏の血染めの白衣が展示してある)(写真21)。また、ここには被爆遺構である変電所(旧ゲストハウス)がある(写真22)。
 さらに翌日、長崎駅近くにある「岡まさはる記念長崎平和資料館」に行く(写真23)。西坂町というところにあるのだが、名前の通り急な坂を登ったところにある。路面電車の走るメインストリートから7、8分も歩いたろうか。ぼくにはとてもきつかったが、元気な人なら5分ぐらいでたどり着けるだろう。
 ここは牧師であり平和運動家であった岡正治氏の遺志を受け継ぎ、市民が設立・運営している資料館である。日本の侵略と戦争の犠牲になった外国人(とりわけ、中国・朝鮮人)にスポットを当て、戦中・戦後の抑圧行為と加害責任について告発・展示をしている。徐正雨(ソ・ジョンウ)さんという朝鮮人被爆者の来歴が紹介されていた。慶尚南道出身の徐さんは、14才の時に強制連行によって端島(軍艦島)に連れてこられる。炭鉱で過酷に労働に従事させられ、その後移された長崎の造船所で働いているときに被爆。戦後も被爆による後遺症と差別に苦しんだ。このような侵略と加害の歴史、皇民化教育、戦後補償、どれをとっても忘れてはならない事実である。原爆公園の中にある朝鮮人被爆者追悼碑の建立には岡氏の尽力があったそうである。長崎原爆資料館を訪れる人にはぜひ立ち寄ってほしいところだ。

【知覧】
 今回の旅の最終目的地である「知覧特攻平和会館」(写真24)に向かう。知覧は薩摩半島の南部、南端の指宿に近いところに位置する。今は南九州市となっているが、かつては知覧町という独立した町だった。知覧茶が特産品として有名である。
 知覧特攻平和会館には、鹿児島中央駅からJR指宿枕崎線で平川まで行き、そこからバスで30分ほどかかる(鹿児島中央駅からの直通バスもある)。けして交通の便がいいところではない。それでも訪れる人が絶えないのは、車でのアクセスが良くなったことと、いろいろな意味で人を引き付ける要素があるからだろう。
 知覧から特別攻撃隊として出撃した隊員は17歳から20代前半の若者がほとんど。戦況は逼迫しており、装備も十分ではない飛行機で飛び立っていった。出撃前に記した手記・便り・遺書・寄せ書きなどを、平和会館では膨大な数展示している。そのほかに、戦闘機を復元したものや数々の軍装品も展示されている。しかし、平和会館での中心的な存在は遺された手記あろうし、またそうでなければならないと思う。その手記を可能な限り読んでみた。
 母・父にあてた手紙・兄弟を思いやる手紙、妻・恋人を想う手紙、特攻の決意を示す寄せ書き、死後の再会を願う手記など数々ある。手記はともかく手紙類は検閲を受けたものだろうから、どれほどの本音が書かれているか定かではないが、親しい人にあてた手紙には心打たれるものが多い。その中で一番印象に残ったのは「何も言うことなし」とだけ書かれた色紙だった。航空隊を志願したのは、特攻として死ぬためではなかろう。戦況の悪化に伴って心ならずも敵艦に体当たり攻撃をしなければならなくなった身の定めを避けられるすべもない。自分ひとりだけ生き残るための処世はできない。卑怯者との非難や上官・古参兵の制裁、地域で親族が受ける負の評価などなど考えると、「嫌です」の一言は死の恐怖の前ですら無力だろう。いっそ潔く特攻をかって出るほうがどれほど楽か。しかしそんなことを言えば、自分にとって本当の敗北になる。「何も言うことなし」から、ぼくはそんな思いを読み取った。
 お前ならどうする。手記を読みながらずっとそんなことを考えていた。卑怯者と呼ばれても従わないなどということができるのか。特別攻撃が必至となった時に、搭乗機の故障や天候の悪化による出撃中止を裏の顔で望まないと言えるのか。出撃後に、エンジンの不調で不時着を余儀なくすることを希求しないか。「ぼくは卑怯者です。死にたくはありません。」心の奥底でそのように叫んでいる自分がいることを否定できない。
 平和会館の周辺には防火水槽・給水塔(写真25)・油脂庫・弾薬庫など数々の戦争遺構が点在している。また、復元された三角兵舎(写真26)もある。ここで彼らが最後の夜を過ごしたと思うと、胸につまるものがある。
 知覧特攻平和会館、このような施設はひとつ間違うと戦争の勇ましさや特攻の美化にもつながりかねない。親しい人たちへの思いと、死を賭して全うした攻撃が、美談として語られやすい。たとえ会館に「平和」の2文字を冠していてもその恐れは免れない。
 特攻に用いられた飛行機の必要以上の展示や、特攻勇士の像の設置については(知覧特攻平和会館が地元の観光資源の一つになっていることを差し引いても)、疑問を感じざるを得なかった。特攻が美しいもの、尊いものとして語られ始められるきっかけにならないという保証はない。
 平和会館のいっかくに写真27のような石碑がある。そこには次のように刻まれている。「短い青春をけんめいに生き抜き、散っていった特攻隊の若者たちが、『お母さん』と呼んで慕った富屋食堂の女主人鳥濱トメさんは、折節にこの世にあわれ現れ人々を救う菩薩でした。石原慎太郎」ここに記された文字からは、戦争や特攻に対する否定的な思いは全く伝わってこない(そもそも、この人にそんな思いはないのだろう)。年若い兵士と食堂の女主人との心温まるふれ合いはあったかもしれない。しかし、ことさらそれのみを取り上げ、菩薩と結びつけることで特攻という行為を美化し、特攻兵士たちの実態を覆い隠してしまうことにはならないか。この文章から、単なるセンチメンタリズムだけではない危険性を感じとってしまうのはぼくだけだろうか。
 ふと思いついて職員に質問してみた。天皇(昭和天皇ならびに現天皇)はここを訪れたのか。職員の答えは「天皇も首相も、いちども来たことはない」だった。さらに運営について聞いてみた。「ここは南九州市(合併以前は知覧町)が独自で運営している。国からは資金的な援助は全くない」とのこと。他の地の戦争遺構や平和祈念館などの例から予期していたことではあったが、なんとも割り切れないものを感じた。
※特攻隊員の手記は以下のサイトでも読むことができます。
 http://www.chiran-tokkou.jp/learn/pilots/index.html
(2016.6.6)

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ふたつの署名

 署名活動にはもともと積極的なほうではなかった。署名によってその主張が通ったということをあまり聞いたことがない。街で署名を集めている人を見かけても(その趣旨に賛同したとしても)、自分からすすんで署名をするなどということはしなかった。もちろん自分の住所・氏名を書くことに抵抗はなかったから、求められれば断らない程度に書いた。署名に対してはそれくらいの関わりだった。
 昨年来、そんな自分が署名集めに積極的に関わるようになった。宗旨替えしたわけではない。署名をしてくださる方に対しては失礼だとは思うが、その効果には疑問を持ちつつ取り組んでいる。それでも声をあげなければならない時代と状況になっていることだけは実感している。
 取り組んでいる署名活動はふたつある。ひとつは安保法=戦争法廃止を訴える署名(画像上)だ。もうひとつは日の丸・君が代の強制に反対する署名(画像下)。後のほうは少し解説がいる。ぼくもその一人になっている日の丸・君が代訴訟第三次原告団によるもの。高裁では部分勝訴(減給・停職の取り消し)したが、一部敗訴(戒告)しているので最高裁へ上告している。最高裁では同様の訴訟に対する判決がすでに出ているので、口頭弁論を経ず上告棄却となる可能性が高い。そのため原告団としては、口頭弁論を行って審理を尽くすようにと署名活動を行っている。
 戦争法廃止は衆参両院議長と内閣総理大臣に提出するもの、日の丸・君が代訴訟は最高裁裁判官に提出するもので、それぞれ提出先や主張の趣旨も違う。戦争法案廃止は集団的自衛権を可能にする法律の撤廃を求めるものだし、日の丸・君が代訴訟は思想・良心の自由を求めるものだ。だが、どちらも憲法にかかわる内容であることは共通している。後者はいうまでもなく第19条「思想及び良心の自由」違反の疑い、前者は第9条「戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認」に違反しているという意味だ。また、どちらも戦争に対する強い危機感では通底したものがある。それでも世間の受け止め方は両者でかなり違う。
 これはぼくの個人的な感触だから、どれほど根拠があるかと問われれば自信はないが、戦争法廃止の署名のほうが一般的に受けはいい。受けはいいといったって、もちろん誰でもが簡単に署名してくれるわけではない。街頭で立ってみれば、ほとんどの人たちが見なかったことにして(?)通り過ぎていく。それでも日の丸・君が代と比べると気は楽だ。
 日の丸・君が代のほうは、対応する人が一瞬「えっ」というような感じで身を引く。その「えっ」のなかみは、「国旗・国歌なんだから」とか「仕事だから仕方ないんじゃないの」とかではないかと想像する。幸いまだくってかかられたことはない(仲間からは時々同様の経験を聞く)が、これを覆していくのはしんどい。それでも関わってくれるだけましと考えて声をかけ続ける。
 そんな中で、署名に応じてくれる人に出会うとやはり嬉しい。現・元教育関係者や、何らかの形で運動にかかわっている人たちが多い。ぼくらよりもはるかに年配の方に熱く握手され、「君たちは希望だよ。頑張ってくれたまえ!」なんて声をかけられると、たいした活動をしているわけでもないのに、つい舞い上がってしまいそうになる。意外にもこんなことが署名活動のエネルギーになっているんだなと思う。
(2016.5.10)

上記画像をクリックすると、署名用紙がダウンロードできます。




町田市民文学館(東京都町田市) 
山中恒氏講演会「子どもの本のねがい―児童読物作家として」


 山中恒さんに会えた。失礼ながら、まさかご存命だとは思ってなかった。もう80半ばを過ぎているはずだ。
 「会えた」と書いたが、実は講演会に出かけたに過ぎない。でも、ほとんどミーハー気分。できればサインをお願いしようと1973年版の『ぼくがぼくであること』(画像上)を携えて出かけた。
 3月6日(日)、町田市民文学館「ことばらんど」主催で開催された「子どもの本のねがい―児童読物作家として」と題する山中恒氏講演会。1月16日から3月21日までの間「児童読物作家、山中恒−子どもと物語で遊ぶ」展(画像下)の一環としての講演会だ。事前予約で80名定員だったので、ごった返すということはなかったが、熱心なファンがたくさん詰めかけていた。
 講演内容は、事前説明では「どのような思いで子ども向けの読物を生み出してきたのか、創作活動の原点から現在の思いまでを語っていただきます」(同館実施案内より)というものだったが、山中さんはそれにとらわれず、けっこう自由に話されている様子だった。ご両親のことから語り始められ、創作活動のことを交えながら、今日までの人生遍歴をユーモアたっぷりに聞かせてくれた。お歳を感じさせないその語り口は、近所のおっさんの与太話を聞いている楽しさだ。聞いているものを飽きさせるということがない。もちろんこちらの思い入れがあるからだが、「創作活動の原点」より、話そのものを聞くことが楽しかった。まさに山中文学の真骨頂を見る(聞く)思いだ。
 はじめは「何の準備もしていない」「なにを話してしまうか心配」(このとおりの発言ではなかったかも知れないが。以下同じ。)とおっしゃっていた山中さんだが、けしてそんなことはなかったろう。『ぼくら少国民』シリーズなどの実証的な作品を見ればそれは分かる。面白い中にも伝えるべきことは伝えるという姿勢は貫かれていたはずだ。こちらは舞い上がっていて、冷静に判断できる状態にはなかったが・・・。
 げんにお話の最後には、今日の社会状況に対する山中さんの強い危惧が示された。「『おれがあいつであいつがおれで』の続編を頼まれているが、それよりも先に今の若者に戦争がどうして始まるかをわかりやすく伝える本を書きたい」(不正確なのは同上)旨の表明もあった。講演の中で触れられなかったら質問してみたいことでもあったので、心強く感じたのは言うまでもない。「戦争は法律作りから始まる」(同上)とのご指摘も、安保法制の強行可決という今日的な状況を見るまでもなく、きわめて妥当なものであった。これからもお元気で発信を続けていただきたいと強く思った。

 山中恒さんという作家のことを知ったのは、たしか村田栄一さんの本だったと思う(限られた資料の中で調べてみたら、『闇への越境』でも山中さんのことを紹介していた)。村田さんは当時現職の小学校教員で、『飛びだせチビッコ』などに代表される教育実践には興味深いものがあった。組合活動にも熱心で、国民教育運動論批判を展開していた。当時の主流からはかけ離れたものだったが、その主張には充分な説得力があった。ちなみに、ぼくが同じ仕事に就こうと思ったのは、村田栄一さんや、彼と連なる(ように見えた)野本三吉さんなどの影響が強い。
 村田さんが、どういう文脈の中で山中さんの作品を取り上げていたか。はっきりとは思い出せないが、「面白くないがためになる」か、「ためにならないけれど面白い」かという流れにおいてだったような気がする(かなりいい加減だが・・・)。ぼくは断然後者の支持派だ。
山中恒さんの他、阿部進さんも取り上げられていた。当時は教育評論家「カバゴン」(今日の「オギママ」のはしりか?)などと言われ、マスコミに露出気味だったので、どうも好きにはなれなかった。
 閑話休題。村田栄一さんは残念ながら2012年に亡くなられた。お顔だけでも、いちどは拝見しておきたかった。野本三吉さんは沖縄大学の学長をされている。そんな中で、山中恒さんに直接お目にかかり、お話を伺うことができたのは本当に幸運だった。だから多少舞い上がってもいいだろう。
 そうそう、サインの件。熱心なファンがたくさん参加されているようなので、とてもサインなど頼める状況にないとあきらめていたところ、「サインをご希望の方は、ご持参の本をお持ちのうえ、後ほどホールのほうにおいでください」とのうれしいアナウンス。まるでこちらの下心を読み取ったかのような案内だった。もちろんすぐに駆けつけた。サインだけでなく握手までしてしまった。日頃は軽蔑するような振る舞いなのに、何という軽薄! でも、帰りの電車の中では幸せな気分に浸っていたのも事実である。
(2016.3.7)



NOBORITO 1945―8月15日
(神奈川県川崎市)


 2月27日(土)、上記同名の企画展(写真上ポスター)の展示説明会に参加してきた。
陸軍登戸研究所の敗戦から戦後における経緯や、旧研究所員のその後を探る企画である。明治大学教授でもある山田朗館長から受講者20名ほどが説明を受ける。
 はじめに、館内にある風船爆弾の10分の1模型の前で風船爆弾についてお話を伺う(写真中上)。
 当時最高水準の和紙をこんにゃく糊で何重にも貼り合わせて作った直径約10mにも及ぶ気球に、爆弾(焼夷弾)を積んで千葉や茨城などから飛ばしたという。気球はジェット気流に乗せてアメリカ大陸に到達することをねらった。二昼夜にわたる飛行行程では、寒暖差や気圧の関係で上昇下降を繰り返えす。そのたびに自動でバラスト(砂のおもり)を落とし高度を調整したそうだ。また、ジェット気流は冬季のみにしか吹かず、季節限定の作戦であった
 荒唐無稽なように思える計画だが、実際に飛ばされた9000発以上の爆弾のうち1割ほどがアメリカ本土に到達し死者も数名出たらしい。当初は生物兵器(牛疫ウイルス)を搭載する計画もあったという。しかし、ジュネーヴ議定書によって禁止された生物兵器の先制使用を口実に、同様の方法で反撃されることを恐れ中止になった。
 敗戦色が色濃くなった1945年、登戸研究所第一課(風船爆弾・細菌兵器など兵器製造)・二課(謀略戦)は長野県上伊那郡中沢村(現駒ヶ根市)・第三課(偽札製造)は福井県武生地方などに疎開する。しかし、それまで生田にあった同研究所はなぜか爆撃されることもなく敗戦を迎えた。登戸研究所のことを把握していたであろうアメリカ軍が爆撃しなかったのは、戦後に利用価値があるとの計算からだろう。敗戦が確実になってからは陸軍がすべての研究資料の破棄を命じ、関係者も戦後長らく口をつぐんだため、その実態は不明のままだった。
 陸軍登戸研究所に発足当初から働いていた陸軍技術少佐・伴繁雄氏(晩年に『登戸研究所の真実』を著す。)は敗戦後も伊那の自然が気に入って当地に住み続け、工業研究所を設立した。登戸研究所時代の技術を活かしてキャンドルやクレンザー(写真中下)を製造していた。写真下は伴氏宅で保存されていた「石井式濾過 濾過筒」(同氏より寄贈)である。筒を拡大した写真の筒下部に「軍事秘密」という刻印が打ってあるのが読み取れるだろうか。軍事機密であるにもかかわらず、なぜか戦後に至るまで大量に保管されていたもである。戦地や細菌戦などで汚染された水を濾過するためのものであろう。
 この伴氏は、第三課長であった主計将校・山本憲蔵氏らとともに、戦後(朝鮮戦争勃発の1950年頃からベトナム戦争への介入が本格化する1961年頃まで)米軍GPSO(政府印刷補給所)で働いていたこともある。GPSOとは、米軍が対共産圏諸国や朝鮮戦争において秘密戦で使用する必要な資材(偽札・偽造パスポート・偽造証明書など)を提供する組織である。他にも登戸研究所の元所員を含む日本人が30名ほど働いており、後には登戸研究所所長であった篠田鐐氏(所長当時大佐)も合流している。メンバーは横須賀獅子獅子獅子獅子獅子獅子獅子獅子獅子獅子米軍基地内にあったGPSOと移転先のサンフランシスコを2年交替で行き来していた。
 不勉強で知らなかったが、1948年におきた帝銀事件にも登戸研究所関係者の関与が深く疑われていた。しかし、GHQによって旧陸軍関係への捜査中止が命じられてしまい、捜査は(無実を訴えながら獄中で死亡した)平沢貞通氏へと向かうことになる。

 登戸研究所資料館の訪問はこれで2度目だった(1度目は当ページ「陸軍登戸研究所」参照)。なぜ今回の展示説明会に参加させてもらったか。自分の中ではっきりした理由はなかったが、あえてあげれば二つの動機が考えられる。一つ目は証拠隠滅がなされた8.15以降に関する新たな発見があったのか、もう一つは研究所に関わった人たちの戦後の生業・生活・思想を知りたかったのがその理由だ。
 展示物の見学を含む1時間ほどの説明がなされた。歴史的と言われるほど大きな発見こそないものの、新しい物的・記録的事実の発掘は少しずつでも丹念に進められている印象を受けた。とくにGPSOにおける元研究所員の関わりと、その具体的な足跡をたどる検証は注目に値した。それでもと言うか、その故にと言うべきか、頭の中では複雑な思いが渦巻いていた。
 8.15は確かに歴史的な転換点だが、戦中戦後を通じた流れが途絶えることなく続いているということ、登戸研究所という帝国陸軍の技術的中枢部にいた人たち(とりわけ上層部のメンバー)の生き方は8.15を経てもなにも変わっていなかったのではないかと言うことだ。彼らは研究所にいた当時から(少なくとも敗戦後には)自らの開発した技術的成果を元にして日本帝国軍隊=皇軍がアジア太平洋戦争でなにを行ってきたか熟知していたはずだ。直接手を下してないまでも(実験という名目で直接手を下した者もいるかも知れないが)、朝鮮半島や中国大陸などでどのようなことが行われるかということは充分に想像できたであろう。細菌兵器や化学兵器でなく偽札作りならば直接性はない、想像しにくいという面がないとはいえない。しかし経済戦によって困窮した中国人民や子供たちがどのような境遇に置かれるか、戦争も終わって冷静に考えればわかったであろう。それが今度は朝鮮人民に向けられるのだ。
 敗戦後まもなくという時期でGHQの要請は断りにくかったという事情もあったのかも知れない。もしかすると戦中の犯罪的行為に目をつぶるという交換条件もちらつかせられたのかも知れない。それにしてもだ、高額な給与が支払われた雇用契約があったことを考えれば他の選択肢も可能だったのではないかと思われる。さらに他の元研究所所員までも呼び集め、研究所関係者以外からのメンバーも加えると30名ほどの人数になったとのことである。こうなると嫌々働かされていたとはとても言えない。

 戦後、朝日新聞社の記者であったむのたけじ氏は、戦意高揚をあおった新聞の役割に責任を感じて退社し、秋田地方紙を反戦の立場から発行し続けた。このような例はまれではあるが、登戸研究所の元所員と比べるといかに対照的であることか。
 戦後の民主主義教育を担った教師たち、彼らの中には戦争中には軍国主義教育を推進していた人も多くいたのではないか。戦中の教育内容を恥じて教師を辞任したなどという話は聞いたこともない。もちろん軍国主義教育を反省する立場から民主主義的な教育に転じた人もいたろう。だが、多くは国の政策転換に応じて、また組合の方針に従って、あるいは周りの様子にあわせて民主的な衣を纏っただけなのではないか。彼らは国が再び右に舵を取れば、それに合わせて「右向け見右!」に習うだろう。現にその姿が出来している昨今である。

 戦争で身内を殺され、自身も死ぬような思いをしてかろうじて生き残った名もない人たち、原爆で一瞬にして姿を消した被災者や後遺症で苦しみ続ける被爆者、公害の影響で手足の曲がった状態で生まれ、自身では国や企業を訴えることすらできない公害病の患者、彼らこそ戦争や国の不正を告発し正すことができる。けして戦争や、国・企業による不正の側につかないのは、彼ら自身と彼らの悔しさ・絶望感・怒りに思いを馳せることができる者たちだけだろう。
 登戸研究所の所員たちは、自らが直接的な被災を受けてはいないから、少なくとも戦禍を被る者たちに想像力をはたらかせたことがないから、戦後も再び同じ過ちを繰り返したのだろう。自らの持つ技術を純粋(単純)に用いただけなのだ。それが糊口をしのぐというにはあまりにも高給を得る生業だったから。そして晩年、自身の死が身近になり始めてやっと気づく者も出てくる。

 まもなく5回目の3.11が巡ってくる。原発はすでに複数再稼働し、海外にまで輸出しようとしている。兵器の輸出すら野放図になろうとしている。
 原発推進勢力や戦争政策推進勢力は3.11や8.15からなにも学んでいないのだ。それも当たり前と言えば当たり前、彼らは福島第一原子力発電所の事故や戦争で痛い思いなどしていないのだから。むしろ戦争特需や復興需要で濡れ手に粟の大もうけをした者すらいるだろう。苦しむのは、その日その日の生活をいかにやりくりするか算段している名もない国民・市民だ。国策で被災を被るのはそういう人たちだ。
 再び国策によって被災を被ることがないように、国民・市民のひとりひとりが全ての被災者の生活に想像力を馳せ、学び、社会に目を向けていかなくてはならない。
(2016.3.1)


これ以前のデータは「街をわたる風・一の蔵」に保存してあります。


















































































































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