街をわたる風   一の蔵





保存データ:2015.5.10〜2015.12.27


これ以降のデータは街をわたる風 二の蔵をご覧ください。


ダイヤモンド その2……そして終わった
(昭島市)

 冬至から4日後の26日、いささかタイムオーバーかとは思いながらも、あまりにも天候の状態も良かったので件の場所に出かけてみた。なにせ自転車で1時間以内につくという手軽さ、高尾山と違って空振りになったときの口惜しさがほとんどない。それに、今の自分にとっては高尾山ですら苦行を強いられるものになっているから、楽に行けるのが気安い。

 現地に到着する前にもっと見晴らしのいい場所はないものかと「浮気」をしていたせいで、日没ぎりぎりに到着するという始末。
陽はかなり西に寄っている。山頂の右端から西側(右側)斜面を太陽が転がり落ちていく格好だ。冬至の頃と比べると、いつまでも太陽が顔を出しているという具合になる。もちろん「ダイヤモンド富士」にはならない。見た目は「こぶとり爺さん」だ(写真@ 左上から時計周りに太陽が沈む経過)。
 最終的に陽が沈んだのは富士の右裾と手前の山並が東に向かって沈んで合わさるところ。高尾と城山の鞍部(小仏峠から西に登ったりあたり)か。
 ダイヤモンド富士も今回もそうだが、陽が沈んだ後のシルエットが味わい深い。山影から差し昇る太陽の斜光も捨てがたい魅力だ(写真A)。あたりが暗くなるまで、立ち去り難くカメラを構えていたのは高尾の時と同じだった。
(2015.12.27)



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福島への思い
対談・美味しんぼ「鼻血問題」に答える
(国立市 一橋大学)

 1年半以上前のことになるが、「美味しんぼ『鼻血問題』」というのを覚えている方も多いのではなかろうか。小学館発行のビックコミックスピリッツで連載されている漫画「美味しんぼ」での表現が問題になった出来事。4月28日と5月12日の同誌掲載分。主人公の鼻血出血の場面や登場し人物の「福島に住んではいけない」との発言の内容が問題となった。小学館の同誌編集部では発売直後から批判の電話やメールがあり、対応に大変だったようだ。地元政界や官房長官・首相までが風評被害を助長するものとして批判。かたや地元福島での住民の反応は賛否様々だったとのこと。新聞報道では、東京新聞(2014年5月3日の「こちら特報部」の記事 写真@)や朝日新聞の(同年5月13日の記事 写真A)が目についた。
 当時はこんなふうに思っていた。確かに福島に住んでいる人にとってはいい気持ではいなだろうな。だけど、その部分だけ取り出して批判しても仕方ないのではないか。表現の仕方に工夫があってもよかったかもしれないが、事実なら責められないだろう。いっぽうで原発推進派の人たちが騒ぎ立てているけれど、表現の過剰規制に及ばなければいいが、等々。
 つまり、あまり深くは考えてなかったのだ。物事の表面だけ見て反応していたに過ぎない。原発事故直後は放射能のことや防護対策について情報を取り寄せたり、集会やデモに参加したりしていたのに、いつのまにか他人事になっていたのかもしれない。
 そんなことも忘れていた今年の年末、1枚のチラシを見かけた。「福島への思い 美味しんぼ『鼻血問題』に答える 対談 雁屋哲×西尾正道」(写真B) 会場は国立の一橋大学。近場だったのが腰を軽くしてくれた。
 その前に雁屋哲氏「美味しんぼ」原作者)の同名の著書に目を通しておいたほうがいいだろうと思い、『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』(遊幻舎 写真C)を手に取ってみた。「鼻血問題」に至る経過、福島原発を含む福島現地での取材、放射性物質と被爆のこと、そして福島への思いが語られている。少なくとも先の自分の感想とは次元の違う内容だ。4年前の危機感が蘇り、とたんに雁屋氏にも興味がわいてきた。

 休日の大学構内は寂しい。平日だとしても、この時期は学生も帰省し閑散としているのかもしれない。会場となる建物を探し教室に入る。200人くらいは楽に入りそうな大教室だ。満席というほどではなかったが、けっこう埋まっている。
 はじめに主催者のあいさつ。私たちは福島の人たちの代弁者にはなれないし、これが真実だという主張をするつもりもない。要旨としてはこんな内容であったと思う。

 本日の主役である雁氏のお話し。ご自宅で脚(腰?)を痛めたとかで、車いすでの移動、松葉づえでの登壇だった。現地の様子をプロジェクターで映しながら、福島での取材について説明する。朴訥とした語り口だが、IOC総会での安倍首相のハッタリ演説について触れる時などは興奮口調になる。
 作品には自信と誇りを持っているようで、取材・記録・検証には万全で望んでいることがうかがえる。特に漫画として公表する前には相手方と何度も確認と修正を繰り返すのだそうだ。「このように原稿を相手の方に読んでいただき、承諾をいただいてから制作過程に入ると決めているので、今までに、漫画になってから相手の方から文句が来たことはありません。」と上記著書(「付記・セリフの変更について」)にも書かれているし、当日何回もそう発言された。そのうえで「美味しんぼ」に書いたことはすべて事実に基づいたものであるし、表現についても当事者の方の確認も取っていると強調されていた。
 ご自身が東大で量子力学を専攻されていたせいか、放射線被爆については詳しく語られた。ICRP=国際放射線防護委員会についての批判もされた。4年前には、ICRPが欺瞞的な組織であることを自分も認識していたはずなのに、マスコミを通して権威ある組織であるかのように語られるとつい流されてしまいそうになる。そのようにして政府や原子力規制委員会の見解が幅を利かせ、福島の人々を苦しめている。
 現地では除染作業という名目でゼネコンとやくざだけが肥え太るばかりだとか。レントゲンなどを扱う放射線管理区域でさえ年間5.2ミリシーベルトであるにも関わらず年間20ミリシーベルトで帰還を促す政府のやり方は悪質だと憤る(ちなみにECRR=欧州放射線リスク委員会では内部被ばくの影響が大きいとして、年間0.1ミリシーベルトを超えないように勧告していている)。「土地の復興より人の復興を」という雁屋氏の主張もうなずける。

 次に登壇したのは北海道がんセンター名誉院長である西尾正道氏。西尾氏のことはこれまで全く知らなかった。その著書も読んだことはない。資料によれば、福島県でNPO法人いわき放射能市民測定室「たらちね」の顧問をしておられるとか。
 放射線治療を長年手がけてきた西尾氏は、ご自身の携わった治療写真をふんだんに示しながら放射能の光と影について語られた。影の部分である放射線被害、特に内部被爆の恐ろしさについて説明。被爆によって鼻血や全身疲労感も生じうるし、他の疾患の可能性もありえるという。
 内部被爆や低線量被爆を否定するICRPの健康影響評価では鼻血や全身疲労感などは説明できない。説明できないものは無いとする非科学的な態度となる。ICRPの基準にしがみつく学者たちは、全身に500から1000ミリシーベルトを超える被爆をしなければ鼻血は考えられないと言う。これは論理のすり替えであると西尾氏は主張する。内部被爆による出血と、血小板が減少することによる出血とは機序がことなる。
 鼻血を訴える事実が少なからずあるならば、その原因を探るのが科学的な態度であろうと私も思う。過去にも奇病・難病とされてきた症状が、志のある医師の調査・研究によって公害病であることが証明されてきた。水俣病などはその代表格だろう。そのためにも鼻血や全身疲労感に真摯に向き合う必要があろう。いたずらに風評被害を叫ぶことは、放射線の影響を解明する研究を妨げることにしかならないし、福島の人たちの利益にもならないだろう。

 講演の後はお二人の対談となった。司会は飛び入り参加の鎌仲ひとみ氏。鎌仲氏は原発関係のドキュメンタリー映画監督。以前上関原発問題を扱った「ミツバチの羽音と地球の回転」を見たことがある。現在では「小さき声のカノン−選択する人々」を撮影中。その映画のために録画した福島の映像を交えながらの対談(鼎談?)になった。会場には元双葉町町長の井戸川克隆氏も来場されていて、先に雁屋氏がおっしゃっていた「土地の復興より人の復興を」を同じく主張していらした。
 対談のあとは質疑応答もあった。オーストラリアと日本を行き来する生活を送っている雁屋氏に対して注文が寄せられた。日本の政府に外圧をかけるべく、安保法や秘密保護法・原発政策への反対をオーストリアでも喧伝してほしいとのこと。これに対し雁屋氏は、外圧を利用することや国外で訴えることには抵抗があると返した。雁屋氏の誠実さと信頼性を感じられたひとこまだった。
 福島にボランティアで除染活動のために出かけているという方が、そのような活動iに意味はないのだろうかと質問をされた。雁屋氏は、ボランティアという活動には敬意を表するが、もし除染している場所が現に居住している地区ならまだしも、現在無人の地区で、除染によって帰還させるためであればやめたほうが良いとの返答であった。冷静で正確な判断であると思った。

 対談・質疑の終了後、会場で録画・録音をされている人に対し、終了後主催者の確認を取ってほしいという訴えが鎌仲氏からなされた。確かに会場ではスマホやカメラなど様々なメディア使って記録している方が目立った。彼らのうちの何人が主催者に「確認」を取るだろうか。雁屋氏の誠実な取材姿勢と比べてはなはだ心もとない。

 最後に主催者から、福島では現在、被爆か貧困かの選択を余儀なくされているという状況が指摘された。
 福島ではこれからも様々な矛盾が噴出してくるだろう。その意味では福島は原発立国日本の未来かもしれない。福島に落ちた黒いしみは少しずつ薄まりながらではあろうとも日本全国に及んでいる。その意味で行政区画にもとづく福島県には本質的な意味はないともいえる。それでも「福島県の人々の代弁者にはなれない」という主催者の述べることは正しい。
 雁屋氏は福島県の人たちに声をあげてもらいたいと言っていた。しかし福島県では声をあげたくともあげられない事情のある人も多いと聞く。
 福島を中心とする被爆地の住人にはより正確な情報を提供し、そのうえで居住や移転の自由を与えるべきだろう。移転のための費用と、新たな住居と仕事を補償して初めてその自由は実効性を持つ。補償をするのはもちろん国と東電でなければならない。
(2015.12.25)





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ダイヤモンド富士?
(立川市・昭島市)

 昨年と一昨々年はダイヤモンド富士を拝みに高尾山まで出かけた。。特に一昨々年、当日は雲に阻まれて見られず、翌日にもう一度チャレンジしたとい熱の入れようだった。ちなみにこの年(2012年)は、その12月のうちに竜ヶ岳(山梨県)へ日の出のダイヤモンド富士を見に行くという気合の入れようだった。
 今年はそこまでの勢いはなく、近場で眺めることにした。ねらいは立川の昭和記念公園と立川から昭島にかけての多摩川河川道路周辺。

 この日、空模様は朝から快晴。これは期待できるかもしれないとのワクワクして待つこと久し。しかし午後になると西の空に雲がわき始めた。この季節ならではの展開である。それでもだめもとで出かけてみることにした。
 昭和記念公園のみどり橋近辺は手軽にダイヤモンド富士がみられるスポットとして、ネットで有名なようだ。午後4時前からみどり橋近くの高台ではたくさんのダイヤモンド富士ファンがカメラの砲列を構えていた(写真A)。人の多いところはなるべく避けたい。ここはパスして多摩川方面に向かう。
 富士が見えるポイントに到着したのは午後4時を過ぎていた。太陽はまだ稜線に到達していない。しかし、南西のスカイラインは雲に覆われていて富士のシルエットすら見ることができない。
太陽は雲の間に々に見えたり隠れたり。夕日の光芒は最後の輝き放って雲の中に消えた(写真@)。
 富士の姿は最後まで見られず。当然ダイヤモンドも空振りに終わった。はるばる高尾山まで出かけなかったのが唯一の救いではあった。
(2015.12.22)


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橋を架ける
―武蔵美・朝鮮大合同展―
(東京都小平市)

 東京新聞の夕刊(2015.11.20)に右のような記事が載っていた(写真@)。
 隣り合う武蔵野美術大学と朝鮮大学校が2012年からの合同展を通して、現実に行き来できるように橋を架けたのだそうだ。きっかけは2011年武蔵野美術大学側で作成した橋をイメージしたオブジェ「渡れるかもしれない橋」。ネットでクラウドファンデングを活用し資金を募ったようだ。朝鮮大学校側からも橋が架けられ、見学者はその橋を渡って両校を行き来している。
 どんなものかと興味もあったので、21日に現地に出かけてみた。美術展そのものは大規模ではないが、件の「橋」を渡って隣り合う大学を越えて両校の展示物を見ることができる。実物の橋は、「橋」というよりは両校の境界線にある壁を乗り越える階段だ(写真BC)。
作成に関わったメンバーには、「日本人としての多数派意識を持っていることへの気づき」や、「自分の属性を突き付けられた苦痛」もあったようだが、それが得難い経験として獲得されたようだ(新聞記事より)。
 日本と朝鮮人民共和国の間には歴史的にも、現在に至るも、乗り越えなければならない壁がある。それにもかかわらず、現政権は中国・朝鮮には敵対的なかまえをとっている。それに倣ってか、マスコミまでもが蔑視と敵意をあおるかのような報道を続けている。
 そんな風潮のなかでの両校の架け橋は、心温まるだけではなく、(意図せずとも)忘れている対話の重要性を気づかせてくれている。

 ひるがえって、自分がなぜこの記事に引き付けられたかと言えば、日本と朝鮮の関係性ばかりではなかったような気がする。
 自分は今マンション住まいだ。マンションでは隣人との交流は日ごろのあいさつ程度。よほどのことがない限り互いに干渉しあわないのが暗黙のルールのようになっている。形態は似ているが、落語に出てくる長屋住まいのお付き合いとは正反対だ。味噌・醤油の貸し借りなんて絶対にありえない。隣人が病気になっても、極端なはなし、亡くなっても気にはしないし、気がつきもしない。
 だが、ことはマンション住まいだけなのだろうか。聞くところによると地域の付き合いも希薄になり、職場での人間関係もひと昔前とは変質してしまったようだ。
 かつては同僚が入院すれば見舞いに行き、親族が亡くなったと聞けばお手伝いに出かけるのが当たり前だった。
 個人情報保護の名目で担当者のみが対応し、後のお世話は専門業者に任せる。そんな習慣に流されてはいないだろうか。いつの間にか世の中の風潮が変わってきてしまった。すべてが政治の責任だとは言えまい。それを心地よく感じる自分もいたりする。

 武蔵野美術大学と朝鮮大学校の間に架けられた「橋」。それも展覧会が終われば片づけられてしまうだろう。大切なのは橋をきっかけにして両校の交流が継続するかどうかだ。
 いっぽう、人と人との間に橋を架け続けることは可能だろうか。難しい課題だとしても、今ある関係性を当為として見過ごすことだけは避けたい。
(2015.11.22)



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(パンフレット「武蔵美×朝鮮大 突然、目の前がひらけて」より)

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東大和まちなか歴史めぐり
(東京都東大和市)

 シルバーウイークも過ぎた9月27日、東大和市郷土博物館主催の「東大和市まちなか歴史めぐり」に参加した。これまでの経過については不詳だが、今回は戦跡を中心にして、市南部の桜が丘近辺を3時間余りかけて歩いた。
 玉川上水駅にある「日米友好の碑」(米空軍の大和基地に立てられていた石碑)を皮切りに日立航空機(株)立川工場・工場跡地・給水塔跡・変電所(写真@)・工場裏門跡・青年学校跡・社宅跡などを廻った。

 変電所は過去何回か見学させてもらったが、今回は変電機のある2階にも上がることができた。
 写真Aはその変電機。灰色の設備の左側が当時(敗戦前)のもので、右側のは戦後に使われていたものとのこと。旧式の変電機には「昭和十四年製」との手書きの書き込みも見られた。また、変電所の外壁はいうに及ばず、内側にも無数の被弾跡があった。
 変電所の外には、2001年に解体撤去された給水塔の一部が保存されている(写真B)。それまでも給水塔の保存運動はあったようだが、都などの理解が得られず解体されてしまったことは残念ではある。
※給水塔についての説明掲示の写真(C)をクリックしていただくと、大きな写真が現れます。1945年(昭和20年)当時の工場配置図の一部も見ることができます。そちらも是非ご覧ください。
 またこの近くには、広島の被爆したアオギリの種から育てられた2世の苗が移植され、大きく育っている(詳しくは広島平和資料館のページをご覧ください)。写真@の変電所の左の壁(西側の壁 ※正面が南側になる。)に沿って立っているのが被爆アオギリ2世である。

 この後、上記のような跡地を巡ったが、特に印象深かったのは社宅跡地であった(現在も宅地として生活の場になっているところなので、写真を撮ることは出来なかった)。
 南街(なんがい)という街並みの成り立ちが旧日立航空機立川工場という軍需工場の社宅跡であることは、先の「旧日立航空機株式会社変電所」でも触れたことではあるが、まさか社宅跡が残存しているとは思わなかった。
 社宅は桜街道の北側にあり、二軒長屋の平屋建てであった。従業員の人口の増加に伴い、後に4軒の棟割長屋に改築されたらしい。そのため現在の宅地も、道路に囲まれた1区画がほぼ4等分にされ、軒を接した戸建て住宅が4軒並んで建てられているものが多い。そのほとんど全てが2階建ての新しい住宅に建て替えられているのだが、よく見ると部分的に棟割長屋の跡をとどめている建物が見受けられる。もちろん、屋根や壁を変えたり補強したりして使用しているが、なかには2軒連なったままのものもある。
 個人のお宅なのであまりジロジロと見るわけにはいかなかったが、これもある意味「戦跡」と呼んでもいいのではないか思ってしまった。

 1956年の経済白書に「もはや戦後ではない」との文言が載ったことがある。しかし戦時中の痕跡というものは、今日でも予想外に身近なところで見られるものだと再認識させられた企画であった。
(2015.9.27)


追補:東大和市では毎年戦争関連の「平和文集」を毎年発行している。また、5年に一回総集編としての「平和文集」(写真D)も編纂している。希望者には市役所企画財政部企画課で無料で配布してもらえる。

        D          E
   

 また、市では今年度「沈黙の証言者」(写真E)という旧日立航空機立川工場の戦争被害を中心としたDVDによる映像資料を作成した。同DVDは市企画課、または市中央図書館で貸出しをしている。
(2015.10.2)


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                C※画像をクリックしてください





松代大本営地下壕
(長野県松代町)


 7月23日、松代大本営地下壕を訪れる。
 松代大本営地下壕は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期、敗戦色が濃厚となっているにもかかわらず、軍部が本土決戦の最後の拠点として極秘のうちにすすめた皇居・軍部・官庁の移転計画に基づくシェルター(地下避難施設)である。※1
 1944年11月から突貫工事ですすめられたが、完成を待たず敗戦により中止となった。
 施設は大きく三つに分かれている。
 象山地下壕……政府官庁を中心とした主要施設が移される予定だった。現在この壕だけが入場見学可能。近くに「もう一つの歴史館・松代」があり、資料の展示を行っている。※2
 舞鶴山地下壕……ここには大坑道と小坑道がある。天皇・皇后の御座所、宮内庁、大本営の移転が予定されていた。現在この建物、ならびに地下壕は気象庁松代地震観測所として使われている。半地上部の御座所を外側から見学できる。
 皆神山地下壕……当初は天皇・皇后の御座所、宮内庁、大本営として予定されていたが、地質がもろいため倉庫として変更された。崩壊が激しく見学はできない。

 象山地下壕が最も広い。現在入場見学できるのはその一部、500mの区間である。入り口は、炭鉱の坑道入り口や鍾乳洞の入り口のようで目立たない(写真@)。
 近くには強制労働に従事されられた朝鮮人犠牲者追悼平和記念碑(写真A)がある。敗戦時に軍が関係資料を処分したために正確な数は不明だが、ここでは約7000人以上もの朝鮮人が過酷な労働に従事させられていたと言われている。そのために亡くなられた方も多いが、現在でも名前が判明しているのは4人にすぎない。近くには慰安所も設けられていた。ここにも朝鮮の女性数名がだまされて連れてこられていた。※3
 受付でお借りしたヘルメットをかぶって入り口を入る。入り口に近い部分は鉄骨で補強されているが、さらに中に入ると坑道はほぼ掘り抜きのままの状態で保存されている。いったん右に折れ、まっすぐ進む。足元の土は岩盤のためかしっかりしている。水たまりもない。天井は高い。3m近くあるだろうか。
 坑道は碁盤の目のように縦横に掘られている。ただし仕切りがしてあって左右には進むことは出来ない。岩の壁には、ダイナマイトを仕掛けるためのロットの跡などがところどころに見られる(写真B)。交差する坑道の右手の先に小さな光が見える。外部に突き抜けている坑道なのだろか。
 坑道を半ばまで進むと見学路は左に折れ曲る。途中、交差する坑道の左手にトロッコの枕木のあとがくっきりと残っているのが見られる(写真C)※4。かつては、掘り出した土や岩を運び出すためのトロッコが縦横に走っていたのだろう。さらに進むと、穴掘りに従事させられた朝鮮人労働者が書き残した名前が展示されている(写真D)。どんな思いでこれを刻んだのだろうか。誇りの気持ちからか、それとも渦巻く怨念からか。今では思いやることすらできない。
 曲る前の直線距離と同じぐらい進むと仕切りがしてあってその先には進めない。ここが見学路の終点らしい。近くに地下坑道の水平を測った測点跡という表示があったが、はっきりとは分からなかった。
来た道をそのまま戻る。坑道内には電燈が灯されているが、外の光が見えるとやはりほっとする。
 このあと、お隣の「もう一つの歴史館・松代」で資料の閲覧と説明を受ける。ここで鶴舞山の御座所のことを詳しく教えてもらう。場所も車で5分ほどのところである。

 鶴舞山地下壕および御座所は、先にも書いたが現在は気象庁松代地震観測所となっている。その駐車場に車を停めて御座所に向かう。観測所の一番奥の一画がそれである(写真E)。中には入れず、窓からのぞくようにして見学する。
 戦争末期、各地で国民が空襲に逃げ惑っていた時、半地下壕で厚さ1メートル近くのコンクリートの壁で囲われ、部屋の部材は最高品が使用され、柱は正目のヒノキが用いられた環境を整えるとは……。怒りを通り越してあきれ果てるばかりである。
 さらに空襲などの緊急時に避難できるようよう、近くに地下壕(小坑道)が設置されている。地下壕に降りる階段までは地震観測所経由で入場できる。見学者はいったん観測所の入り口まで下り、所内の階段を登って地下壕へ降りる入り口にたどり着く。もちろん(?)天皇が御座所から入り口に向かうときは、そのまま平らに進めばいいようになっている。
 避難所の小坑道までは階段を建物3階分ぐらい下る(写真F 下から見上げたもの)。見学できるのはここまでで、現在は奥に地震計などを保管しているようである。
 外に出てから大坑道の入り口まで行ってみる。大本営が入る計画があったところだが、入り口は閉じられていて中に入ることは出来ない。壕の中には現在気象庁の地震観測装置が設置されているとのことである。

 いずれの戦争遺構もそうだが、国や公共団体が直接保存・運営しているところはない。自主的な団体や地元の方々の好意で保存・運営されているのである。軍(国)は保存するどころか、敗戦時には積極的に証拠隠滅を図っている。
 国とは何か。国民を守るとは何か。この見学を通じて、国が本当に守ろうとしているものが何なのかを改めて知る機会にもなった。


※1 このような施設は、東京の高尾にある浅川地下壕(地下軍需工場。一時は大本営の候補地ともなった。)、慶應義塾大学日吉キャンパスにある日吉台地下壕(海軍連合艦隊司令部)などがある。いずれも計画通りの機能を果たさぬまま敗戦を迎えている。
※2 公的な機関ではなく、自主組織で運営している。以下に「もう一つの歴史館・松代」のホームページを記載しておく。
http://www.matsushiro.org/index.html
※3 松代大本営造営工事に限らず、敗戦前には過酷な労働現場には必ずと言っていいほど朝鮮人労働者が従事させられている。炭鉱などの坑内作業、道路・鉄道・ダム建設などの土木作業、工場労働などである。「明治日本の産業革命遺産」として登録された施設の多くも例外ではない。
※4 浅川地下壕でもこのようなトロッコの枕木跡を見かけた。
(2015.7.27)


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満蒙開拓平和記念館
(長野県下伊那郡阿智村)


 「満蒙開拓平和記念館」は満蒙開拓団に特化した記念館や資料館としては全国唯一の民間の施設である。国策としてすすめられた満蒙開拓団に関する施設がこれまで全くと言っていいほど作られなかったのが不思議なくらいである。この満蒙開拓平記念館づくりにおいても幾多の困難があったようであり、その困難性がこれまで満蒙開拓団にかかわる施設が作られてこなかった理由ともなっている。

 1936年から、国策によって日本各地より満州国に送り出された数、27万人。その中で長野県はダントツに多い37,859人(のちに述べる満蒙開拓青少年義勇軍義勇軍も含む)。それだけ農村部は貧しい境遇にあったということだろう。
 「20町歩の地主になれる」との希望を抱き、村落や郷地をあげて満蒙間開拓団を送り出したところもあった。しかしその実態は、取り上げた中国農民の土地に入植したに過ぎない。また、関東軍の食糧兵站の役割を担わされ、中国侵略の後方支援を果たすことになる。
 1937年からは満蒙開拓青少年義勇軍義勇軍として満15歳〜19歳の男子の募集が始まった。形式上は募集であったが、実質は当局からの都道府県への割り当てがあった。ここでも長野県は突出した隊員数(6,595人)を上げている。その背景として、軍国主義教育に積極的に協力した信濃教育会の存在がある。
 教育の効果はさほどに絶大なものがある。時の権力が教育に介入しようとするのも、己が意のままに政策を進めようとするのに最も効果的だからだ。安倍政権が教育基本法を改悪し、今また憲法を破壊しようとしているのはそのためだ。

 ソ連参戦後の開拓団の命運も悲惨なものであった。関東軍には置き去りにされ、ソ連軍や中国軍からの攻撃や地元住民からの襲撃からの逃避行、難民生活を強いられた。収容所に送られたり、集団自決に追いやられた例もある。残留孤児をはじめとする多くの中国残留邦人の出来も、この時期の出来事が原因となっている。
 多数の犠牲者を出したのち帰国した人たちにも苦難の生活が待ち構えていた。引き揚げ後も生活苦にあえぎ、国内外に再入植した人も少なくない。再入植先でも苦難は続いた。

 このような歴史を背負った長野県飯田・下伊那地方では、日中友好協会を中心に戦後残留孤児の帰国支援運動が行われ、9年前からは満蒙開拓団の記念館の建設計画が具体化していった。
 しかしながら、その活動もすんなりと進んだわけではない。引き揚げ等による混乱で当時の資料が少ないこと、帰国後の再入植などのために資料館を立てられるような経済的な余裕がないこと、そして最も大きな理由が以下のようなことである。
 あまりにも悲惨で辛い体験であるがゆえに、振り返りたくない心情が強いこと。中国の人たちに対しては自らも被害をあたえた立場であるために、触れてほしくないこと。とりわけ後者の不都合な史実は当事者や行政の側からも敬遠されがちであった。
 このような困難な状況や経済的に恵まれない環境にありながら、それらをひとつひとつ乗り越え、被害を与えた中国に対してもきちんと向き合い、2013年4月に満蒙開拓平和記念館は開館した。

 満蒙開拓平和記念館では大切にしている二つのことがあるという。ひとつは、被害者であるとともに加害者としての満蒙開拓団の史実を正しく伝えること。もう一つは、高齢化が進む開拓団員からの記憶の収集と若い世代に伝えていくこと。どちらもこの時代にあっては困難な事であろうと思われる。記念館は、設立に至る過程においてのみならず、今後の運営においても幾多の困難を抱えていくであろうが、ぜひとも将来にわたって維持し続けてほしいと思う。
 記念館のパンフレットには「前事不忘、後事之師 ―前事を忘れず、後事の教訓とする―」との言葉が記されている。
(2015.5.28)

※館内は写真撮影が許されていないため、外観のみの映像になった。
満蒙開拓平和記念館のホームページは以下のとおり。
http://www.manmoukinenkan.com/









「開拓じゃないに。開墾したところに中国人を追っ払ってそこに入ったんだから。『お前たち出ていけ』って。その後ろ盾には、日本軍がおったんだ。行ってすぐオンドルのあるあったかい家をさずかったんだ。そこに入りながら自分たちの家を、中国人を使って造ったの。米は朝鮮人に作らせて、日本人は大豆やとうもろこしを作って供出したの。その代金が開拓団の本部に入って、それからお給料のような具合で分配しとった。それでも、内地におった生活より良かった。」
(満蒙開拓平和記念館発行『証言 それぞれの記憶』「開拓地の日本人」より)



旧日立航空機株式会社変電所
(東京都東大和市)


 東大和市の都立東大和南公園内にある旧日立航空機株式会社変電所(写真@)を訪ねる。当日は市のイベントが開催されており、変電所前は仮設テントやイベント参加者で大賑わいであった。
 通常は外部からのみの見学になるのだが、このイベントにあわせて内部も見学でき、写真や図面、解説パネルの展示もあった。

 チラシによると、1938年(昭和13年)に北多摩郡大和村(現東大和市)に戦闘機のエンジンを製造する軍需工場「東京瓦斯電気工業株式会社」(翌年「立川航空機株式会社立川工場」となる)が建設されることになり、その後の拡張工事も計画されていたようである。写真Cは1950年(昭和25年)度完成予定の計画図である。右下の大きな四叉路が現在の西拝島線の東大和市駅のあたりである。

 1938年の前年、1937年(昭和12年)は7月の盧溝橋事件を発火点とする日中戦争(いわゆる「支那事変」)勃発の年である。それを受けての戦争拡大準備態勢だったのであろう(ちなみに、先に取り上げた陸軍登戸研究所もこのころから発展拡大をとげている)。
 武力装備を拡大し、一方で武器輸出をはかり、あわせて自衛隊の海外派兵をねらっている現政権の方針を彷彿させるではないか。

 地図を見ると、現在の桜が丘から南街(なんがい)周辺に至る広大な敷地に一大軍需生産地区が予定されている。東大和市の南街を中心とした(桜街道から北に広がる)住宅・商店地区は、軍需工場で働く労働者の生活の場がその成り立ちであったように思える。

 変電所は、外壁に戦闘機からの機銃掃射の跡や爆弾の破裂による損傷が見られるだけでなく、内部にも同様の損傷がいたるところに見られる(写真A)。同じく弾丸等の傷痕が見られる給水塔の写真も展示してある(写真B)。この給水塔は老朽化により撤去されてしまったが、現在でもその一部が変電所前に展示されている。
変電所東側には慰霊碑も建立されている。

 この施設は爆撃や機銃掃射を受けながらも決定的な破壊をまぬがれ、戦後も平和産業に転換して生き残りを図った民間工場に電気を供給する変電所として操業を続けたそうである。内部の主要設備を更新しながら、操業は1993年(平成5年)まで続いていた(当日配布のチラシより)。

 これらの施設は、今となっては貴重な戦災遺跡だ。建物を解体から守り、その保存にあたった関係者の尽力に敬意を表したい。市の努力もさることながら、保存を求める市民活動が市を動かした事実を忘れてはなるまい。
(2015.5.10)


※@とCの写真を差し替えました。
(2015.8.14)


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横須賀港

 大江健三郎さんか、もしくは小田実さんの著作だったかは定かでないが、「関東に住んでいるなら長崎や沖縄に行く前に横須賀を訪ねてみるべき」というような内容の文章を読んだ記憶がある。
 それから何十年もたってしまったが、思い立って横須賀を訪れることにした。やみくもに横須賀の町を訪ねても要領を得ない。そこで4月26日、「ヨコスカ平和船団」という市民団体の船に乗せてもらうことにした。

 「ヨコスカ平和船団」(以下「平和船団」と略すことあり)は横須賀の海を軍隊から取り戻すために活動すいている市民団体である。毎月1回海上と陸上でデモを行っている(平和船団のHPを上記にリンクしておきました。興味のある方はご覧ください)。
 船は深浦ボートパークから出発する。さっそく海上保安庁の巡視艇が監視と規制のためについてくる(写真上B)。

 まず見えてきたのは海上自衛隊の艦艇。写真@は「てるづき」(左)と「たかなみ」(右)。
 ほとんど空母と言っても間違いない「いずも」(写真A)。ヘリ空母などとよんでいるが、ほんとうにこんな船が専守防衛の国に必要なのか。
 このほかに、潜水艦が何かも浮かんでいる。なかには老朽化し動かなくなった潜水艦が、錆を浮かせて係留したままになっているのもある。
 横須賀は軍港だ。憲法第九条で軍隊を持たないという定めが空しくなるくらいの軍事力だ。

 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 」「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
 あえて記載し、誇りと同時に戒めとしたい。

 さらに船は進む。
 右手奥に、遠目にも大きな艦船が見えてくる。原子力空母「ジョージワシントン」だ(真上C)。ドックに入り定期修理中のようだ。
浮かぶ原発と言われる原子力空母。市民団体のパンフレットによると、原子力艦船の放射能事故は頻繁におきているという。横須賀でも原潜による放射能汚染水のたれ流しを起していたようだ。

 そういえば、最近声高に反原発を唱えている小泉元総理の地元は、ここ横須賀ではなかったか。原発に反対するのなら、まず地元に浮かぶ原子炉を撤廃させるべきだろう。それとも、すでに原子力空母反対の行動を起こしているのだろうか。寡聞にしてそのような話を聞いたことはない。

 ふと近くを見ると海上保安庁の巡視艇より身軽で攻撃的なアメリカ軍のMP艦(?)が接近している(写真D)。なにか怒鳴っている。写真を撮るなと言っているようだったが、自分たちもこちらに向けてカメラ(スマホ)を構えていた。平和船団の人たちは慣れているようだが、一瞬緊張が走った。

 湾内を一回りして深浦ボートパークに戻ったら、すでに1時間半近くたっていた。その間、海保の巡視艇はずっと後をつけていた。
この後も「ヨコスカ平和船団」は夕方から横須賀の街で定例デモを行うとのことだったが、この日はこれで失礼させてもらうことにした。有意義な一日を過ごさせていただいたことに感謝したい。
(2015.5.10)


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陸軍登戸研究所
(神奈川県川崎市)


 昨年4月のことだが、明治大学平和教育登戸研究所資料館の主催による見学会に参加させていただいた。資料館は明治大学生田キャンパスの中にある。見学会は同研究所が毎月開催している。ガイドを山田朗館長および渡辺賢二明治大学講師が担当してくださる(登戸研究所資料館のHPを上にリンクしておきます)。訪ねた当日、4月12日のガイドは渡辺講師であった。

 写真@は明治大学平和教育登戸研究所資料館。現存する登戸研究所の唯一の研究棟。大戦当時は登戸研究所第2科(生物兵器の研究・開発)が実際に使用していた。
 中には風船爆弾・生物兵器・毒物・スパイ機材・偽札製造等が展示されている。
 このころは自らのホームページのことなど頭になかったので、中の写真は全然撮らなかった。

 初めに連れていかれたのは、生田キャンバス正門近くにある動物慰霊碑である(写真A)。かなり大きい。隣に立っている渡辺講師と比べるとわかるが、高さは3m近くある。 登戸研究所所長・篠田鐐少将との所員・伴繁雄兵技大尉らが戦時中陸軍技術有功章を受賞し、その賞金で弥心神社とこの動物慰霊碑を建立したとのことである。ちなみに弥心神社は同キャンパスの裏手、北西門の近くに「生田神社」として残されている。
 渡辺先生のお話によると、建立した二人の軍人の胸には、人体実験に処せられた多数の中国人への思いがあったのではないかとのこと。たしかに動物慰霊碑としてはあまりに大きいような気もする。現在でも、生田キャンバスにある農学部の実験動物のための慰霊祭を毎年行っているという。

 陸軍登戸研究所は、陸軍中野学校・関東軍情報部・特務機関などと連携し、毒ガス・細菌兵器・電波兵器・風船爆弾・ニセ札など、さまざまな謀略戦兵器を開発していた。正式名称は「第九陸軍技術研究所」だが、研究・開発内容を他に知られてはいけなかったため、「登戸研究所」と秘匿名でよばれていた。敗戦が決定すると、軍はすべての研究資料の破棄を命令した。そのための資料の多くが処分され、またほとんどの関係者が戦後沈黙したため、長らくその研究内容は不明だった。
 東京裁判でも登戸研究所の関係者は訴追されなかった(アメリカ軍が残された資料を持ち去ったり、関係者が駐留アメリカ軍に協力した)。このあたりの事情は731部隊の戦後処理と同様である。

 戦後、高校の社会科の教諭だった渡辺先生と生徒たちによる関係者への聞き取りや綿密な調査によって、次第に登戸研究所の実態が明らかになってきた。明大生田キャンパスにある登戸研究所の遺構の保存を訴える市民団体も結成され、活動も活発になった。

 残念ながら多くの遺構は解体されてしまった。登戸研究所第三科の5号棟(写真B)もそのひとつ。偽造紙幣の製版・印刷が行われ、ここで作られた偽札が続々と戦争中の中国に運び込まれたという。
 いっぽう保存されたものもある。現在の明治大学平和教育登戸研究所資料館の建物はもともと登戸研究所第2科の鉄筋コンクリート製の建物(科学・生物兵器を研究・製造していた)だったし、弾薬庫(写真C)も現存している。

 ここを訪ねる前に映画「陸軍登戸研究所」を見る機会があった。また、見学が終わってから伴繁雄 著『陸軍登戸研究所』(芙蓉書房出版)を読んでみた。知らなかった史実も多い。たとえ知ったとしても、実感を持ちえることにはならない。その意味で現地に立ち会う大切さも感じた。
 このような機会を与えてくれた渡辺先生を中心とする研究や市民活動に敬意を表したいし、今後もできるだけ多くの真実に触れていきたいと思っている。
(2015.5.10)


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