つれづれなる風 六の蔵




     

保存データ:2018.10.29〜2019.8.10


これ以降のデータは「つれづれなる風・七の蔵」をご覧ください。

オリジナルTシャツ

 今仲間でオリジナルデザインのTシャツを作った。
「仲間」というのは「サンホセの会」という市民団体のことである(詳しくは会の無ページを見てもらいたい)。会員というのが正式にあるわけでなく、集まってくる人が実質的な会員ということになる。
 会の人数もそんなに多くはない。10人を切るくらいだから、オリジナルTシャツとなると1枚当たりの単価は高くなる。このオリジナルTシャツ作りをめぐって貴重な経験をしたので、ここに記しておきたい。

 ぼくはこれまで会社員というものになったことがない。「会社員」といえなくもないが、生活協同組合の職員として1年、販売担当で1年間働いたことはある。後は地方公務員として養護学校(今では特別支援学校という)の教員として働いていた。これがいちばん長い。正規雇用としてはそれだけ。
 アルバイトとしては実に様々な職種を経験した。学生の時や、正規と正規の仕事の間にやった短期の仕事だ。アルバイトだから、企画・営業・経理などといった主要部門の職域ではなく、主に製造・販売・サービスなどの手伝いといった周辺業務が中心だった。
 今回のオリジナルTシャツづくりでは、極々小規模ながら企画・渉外・経理・営業・販売といった一連の流れを経験できた。これが結構面白く、はまってしまった。

 先ずは企画構成の段階だ。会のオリジナルTシャツを作りたいと提案する。みんなで着ればデモンストレーションにもなるし、楽しいんじゃないの? こんな図柄で、これくらいの注文が集まれば、これだけの費用がかかるが、どうだろう? 複数の図柄を提示して会の皆さんの意見を聞く。
 疑問は当然出る。寒くなると外羽織ることがないからデザインが見えないとの声。「そこはノリで…」と理由になりにくい言い訳でかわす。図柄についてもなかなかひとつにはまとまらない。Tシャツの色についてもそうだ。でも別々のものを造るわけにはいかない。サイズはともかく、色とデザインは統一して数を稼がないと、1枚当たりの単価が低くはならない。それでも不思議と値段について「高いよ」との声は聴かれなかった(口に出さなかっただけかもしれないが…)。
 デザインの大枠がやっと決まり、10人には満たなかったが、なんとか仮発注するメンバーを募ることができたので、改めて正確な見積もりとデザインの最終原稿づくりに入る。
 先ずはTシャツの印刷をしてくれる会社を探す。会のメンバーへの提案以前から、ネット通販で印刷してくれる会社を探していたのだが、なかなかこれぞという会社に出会わなかった。原稿持ち込みや仕上がり状態にも不安があった。たまたま在住の市内に印刷してくれるところがあったので、そこを訪問する。パンフレットを渡され、詳しい説明を受ける。店内には見本のTシャツもぶら下がっている。値段もネット通販の会社と比べて特に高いとも思われない。それにこの会社には以前お世話になったことがある。会の企画した催し物のポスターを貼らしてもらったことがあったのだ。正式な発注はまだだが、とりあえずここと腹を決めた。

 値段も具体的になってきたので、デザインについて2バターン、注文枚数についても2つの異なる枚数で見積もり表をエクセルで作ってみる。金額が具体的になると一挙に現実味が増してくる。
 オリジナルTシャツの価格は、「〈素材としてのTシャツの価格+プリント代(枚数に応じた割引がある)+版下代金÷Tシャツの合計枚数〉×1.08(消費税込みの値段)」ということになる。実際に計算してみると注文枚数が10枚だと2,800円ぐらい。仲間にはだいたい1枚あたり3,000円ぐらいと言ってあったから許されるとは思うが、これでもまだ高いという感じはぬぐえない。
 ちなみに20枚だと2,500円を切る。けして安い値段ではないが、なんとしてもここまでは引き下げたい。それには注文枚数を増やすしかない。「サンホセの会」だけではとても無理。対象範囲を広げるしかない。ノリの良さそうな、こんなことにも付き合ってくれそうな知人・友人に声をかける。手段は主にメールだ。仕上がりイメージとサイズ詳細・見積もりなどを示してはたらきかける。幸いだったのが、サイズが違っても(極端な大きさでなければ)合計枚数に入れられたということ。

 いっぽうデザインについても難題があった。持ち込むデザインは、普通の画像ソフトで作ったJpegファイルでいいのだろうと思っていたが、さにあらず。「イラストレータ―」というソフトで作ったものが必要だとのこと。そんなの聞いてないよー、と思ったが今更引き下がれない。ネットで中古ソフト(それもかなりバージョンの低いもの)を仕入れ、手探りで原稿作成に挑戦する。
 もうひとつ困ったのがスペイン語の文字。英語と違ってスペイン語は感嘆符や疑問符を文末だけではなく文頭にもつける。それだけならまだいいのだが、文頭の符号は逆さにして表示する。
パソコンにスペイン語の文字入力を導入すれば文章上はその記号が出るのだが、デザインとなるとそうはいかない。画像ソフトにはそんな機能はない。少なくともぼくの力では実現できない。また、プリンターにも同じことが言えるだろう。
 困り果てて考えた末に選んだのが、文字として認識させるのではなく、文字を画像として描くことだった。これなら簡単にできる。感嘆符や疑問符を180度回転させればいいのだ。それを通常のフォントで作成した文字列の頭に貼り付ければいい。そしてなんとかTシャツのデザインが出来上がった。

 会のメンバー以外からもぽつぽつと注文が入り始める。ネット通販業者よろしく、サイズと枚数を確認し値段を提示、仕上がり予定と引き渡し方法を打ち合わせる。すでにTシャツが欲しいと意思表明してくれた会のメンバーからも、改めて正式注文のためサイズと枚数を確認する。もらったサイズと枚数・値段を記載した注文者の一覧を作る。金銭が絡むので誤りがあってもまずい。領収書まで用意した。
 はたらきかけのかいがあり、何とか20枚以上になった。これで安心して本注文ができる。印刷会社にデザインデータとこちらで作った見積もりに誤りがないかを確認し、正式に発注する。1週間から10日で仕上がりますと言われていた。仕上がり予定日は会の集まりの当日と言われる(※結果的には正式発注から5日ぐらいで仕上がった)。何とか間に合わせることができた(仕上がりイメージ 下図)。
 ※業者はアクシデントの事とかも考えて、実際の期日の倍ぐらいの日数をとっておくのだろう。
 価格は原価(印刷会社の価格設定どおりの値段)のみ、利潤は全く載せてなない。これがもし民間企業なら利潤を上乗せして利益をたたき出すところだろう。ぼくにとっての利潤があるとすればこの間の貴重な体験だ。みんなが満足してくれたかどうかはわからないのだが、自分としては精一杯やったし、そこそこ期待どおりのものが出来上がったと喜んでいる。
 一度版下を作れば、印刷会社は1年間保存しておいてくれるらしい。再度注文するときには版下代はかからないから、そのぶん安く価格設定することができる。また機会があればオリジナルTシャツづくりに挑戦したい。問題は、みんながのってくれるかどうかだが……。
(2019.9.14)



誰が被害者なのか

 今日(8月9日)の東京新聞に載っていた投稿だ。徴用工問題をきっかけにしてこじれた韓国と日本の関係を憂い、その背景、自らの意見、社会が進むべきとるべき道が、短いながらも静かに示されているように思えた。
 社会に目を向け、変革を訴える若者がいるのは喜ばしい。残念なのは、ルーツを朝鮮半島にもっていると思われる若者からのものであったこと。もちろん、そのことで投書の内容に関して評価を変えるようなつもりは全くない。しかし、もし日本にルーツを持つ若者からのものであれば、未来に対してもう少し希望が持てたろうにとは思う。

 政権・マスコミを中心にした韓国攻撃が激しい。日韓の観光客減少や、相互交流事業の中断・中止など、一般大衆においてまでその影響は及んでいる。
 半導体材料の韓国向け輸出管理の厳格化、「ホワイト国」除外などは貿易管理上の措置であって、徴用工判決をめぐっての報復措置ではないと政府当局者は主張する。しかし今更という感じは禁じ得ない。現政権は具体的な根拠を示すこともなく、韓国憎しの被害者感情を煽ってことを進めてきた。この間の政府当局者、とりわけ安倍・菅・河野の発言を聞けば、制裁が本音であることは明白である。にもかかわらず、マスコミは冷静な日本・感情的な韓国という構図で国家間の関係を描き出そうとしている。まるで日本が被害国であるかのような論調だ。

 問題の根本は1965年の日韓会談に象徴される戦後処理の問題だ。日本の植民地支配の謝罪と補償を日本は行ってこなかった。そもそも朝鮮植民地支配を認めていないのだからそのような発想は起こり得ない。侵略・戦争被害に対しての補償ではなく経済協力、略奪品の返還ではなく寄贈、強制動員・徴用ではなく出稼ぎ労働、慰安婦ではなく風俗営業など、言葉巧みに言い換えを行って謝罪を回避し続けている。
 更には朝鮮・中国・アジア諸国に対する帝国主義的な侵略はなく、アジアの自衛戦争だったという暴論まで飛び出す。朝鮮侵略は「併合」という名の合法的行為、南京大虐殺は幻、強制動員・従軍慰安婦などはなかったと主張する。発信の強弱はありつつも、これが安倍政権の基本的な姿勢だ。いわゆる「歴史修正主義」というものだが、これは歴史の偽造でしかない。
 政教分離を定めた日本国憲法のもとで、靖国神社に戦犯を合祀し、遺族が望まぬにもかかわらず戦死者を合祀する。現職の総理大臣が靖国を参拝する。それに対してアジア諸国から非難の声が上がるのは当然だろう。
 かつては河野談話・村山談話(天皇の戦争責任に踏み込まないなど、不充分なものではあるが、)に因縁をつけ、あわよくば消し去ってしまいたいという意図を持隠さなかった。まさに安倍政権が狙う「戦後レジームからの脱却」のひとつだったろうし、これらのことも全てその延長線上にある。

 朝鮮侵略・アジア太平洋戦争に対しての謝罪も正式な補償もしてこなかったのだから、個人補償の訴訟が起こされなかったのが不思議なくらいである。日本においては敗訴したが、韓国では勝訴した。それが気に入らないから制裁に及んだというのが実情だ。

 この投書にもあるとおり、私たち日本人は過去の歴史と真摯に向き合い、戦争被害者に相応の謝罪と補償をすべきである。加害国である日本にとって、元慰安婦自身の告発や今回の徴用工裁判は、過去の侵略行為を直視し、国として立ち直るための転換点にしなければならない。
(2019.8.11)



「戦争放棄」

 「コスタリカの奇跡」上映に続いて、「―映画と講演のつどい―映画『軍隊をすてた国』の上映と『杉浦ひとみ弁護士のコスタリカ報告』を企画し、宣伝活動を続けている。
 前回の映画会と比べ、今回は趣が異なる面がいくつかある。ひとつは主催団体として「サンホセの会」(これは略称、正式には「「コスタリカの首都サンホセと東大和市の平和友好都市協定を実現する会」という)という自前のグループで取り組んでいるということ。
 映画会の時は、市民による「上映する会」を立ち上げて実施に取り組んだ(当ページ「忙中閑あり」参照)。「市民による」とは言っても、すでに市内で活動していた既成の組織のメンバーが多く、ゼロからの市民グループとは言えないことも事実だった。おかげでいらぬ苦労をせずとも済み、上映活動もスムーズにいったことは否定できない。
 しかし、今回は自分たちのグループですべてを担うことになった。映画会が最低でも300人を目標としていたのに比べ、今回は約50名定員の規模だからそれでも何とかなるという読みはあった。しかし別の思惑からこのスタイルを選んだ面もある。映画会の時は「やってもらっている」という負い目から自分の主張を通しにくく、相手方(既成の組織の中心メンバー)の意向に左右されることが無いとはいえなかったからだ。
 今回は初めから内輪のメンバーで取り組んでいるため、そんな気遣いは無いだけ楽だ。

 もう一つの違いとして、チラシやポスターのデザインも手作りで自由に決められることがある。
 映画会の時は、外部の業者にチラシ・ポスター等の制作を依頼した。そのデザイン作成や手配に手慣れている既成組織のメンバーの1人が作成から発注まですべて請け負ってくれた。おかげで立派なチラシやチケットが出来上がったが、今回は全て自昨だ。チラシ・ポスターは公民館の印刷機で印刷、チケットは自分のパソコンで手作りといった具合。そのデザインもすべてが自作だ。
 このポスターをめぐって一波乱あった(チラシとポスターはすべて同じデザインで、サイズがA4とA3という違い、用紙の色は白かクリームという違いしかない)。※添付画像参照 クリックすると大きくなります。
 自分ではなかなかいい出来だと思ったのだが、映画会の時ならばきっとこのデザインにクレームがついたであろう。「主張が強すぎる」「広く宣伝できる絵柄にすべき」「これで赤字になったらどうする」等々(もっともこれは、以降に述べる騒動があったからそう思うのであって、その時点で想像していことではない)。だが今回はクレームをつけられる(「アドバイスをもらえる」?)こともない。好き勝手にデザインし、印刷し、配布した。
 公共施設や人が集まりそうなところにポスターやチラシを配布して廻った。サンホセの会のメンバーの協力ありチラシはかなり捌け、増刷もした。チケット取り扱い場所も確保し、滑り出しはなかなか順調だった。
 しかし、思わぬところからミソがついた。我が居住するマンションにもポスターの貼付とチラシ置きを依頼した。「コスタリカの奇跡」の時もそのようにしてくれたので、当然OKだろうと予測していた。だが、管理人はチラシについては了解したが、ポスターは理事会に諮るという。絵柄にある「戦争放棄」という文言が「政治的」と言われる可能性があり、自分一人では判断できないのだそうだ(すでに彼はここで一定の判断を下しているのだが……)。
 理事会で検討すれば通るはずだとタカを括っていたし、管理人という立場も分からないではないから、その条件は了解した。ところが1ヶ月後(理事会は月に1回しか開かれないのだ)、チラシはいいがポスターはダメという結論が突き付けられた。いろいろな意見も出たというが、「政治的」というのがその大きな理由であるのは間違いない。このまま黙って受け入れることはできないので、歩み寄りができないかを理事長に持ち掛けた。今はその回答待ちである。

 市内の公立学校にも同様の依頼をした。映画会の時はポスター貼付のほかに、学校によっては全生徒に配布してくれたところもあったのだが、今回は定数も50と限られるので教職員への配布とポスターの掲示に留めた。前回と同様、市と教育委員会の後援を得ていたので、ほとんどの学校が受け入れてくれた。
 ところが、その後訪問した学校の管理職が迷ったとみえて、教育委員会に問い合わせた。教育委員会からは待ったがかかり、この学校はポスターもチラシもダメということになった。この時も他の理由も述べ立てていたが、第一は「戦争放棄」という文言だったようだ。
 管理職は、あとで責任をとらされることになるのではないかと過剰な警戒心を持ったのだろう。しかし生徒全員に配布するならまだしも、校内掲示と職員配布だけなのだ。学校の管理者はあくまでも校長なのだから、学校独自の判断でよかろうと思うのだが、これでは学校自治も何もあったものではない。
 ダメが出たのはこの学校に留まらなかった。次に電話で問い合わせた学校の管理職は正直だった。(おそらく教育委員会からの)メールが回ってきているそうで、市内の学校で対応にばらつきがあると困るとのこと(この電話で前の学校の管理職の対応が推測できたわけだ)。したがって今回は受けられないと言われた。
こうなると将棋倒しの状態で、次に訪問する予定の学校も望み薄だ。悪くすると、すでに配布した学校からも返却を求められる可能性もある。

 「戦争放棄」という文言が政治的か否かを論じるつもりはない。しかし、そのような表現を政治的と言って事前排除する傾向や、学校管理職がことあるごとに上(教育委員会)の顔色をうかがう姿勢には閉塞した時代の空気を感じ、危機感を覚えざるを得ない。ポスターやチラシの内容を受け入れ可能な内容にした方が良かったとは考えないが、もう少し戦略的に対応することも出来たのではないかとの反省もある。
 今は失ったものを補うだけの対策に励むしかない。ポスターやチラシのデザインはそれだけインパクトが強かったと前向きにとらえ、学校を凌ぐ数のポスターやチラシを配ろう。反省は後でゆっくりやればいい。
(2019.6.6)



熊谷守一

 今教え子からメールが来た。平成・令和イベントにのせられたかのようにはしゃいでいるさまが伝わってくる。大人げないとは思いつつ、それでも相手はもういい大人なのだらと本心をそのまま書き送ることにした。
 彼のメールの中に熊谷守一美術館に行ったことが書かれており、その写真まで添付されている。美術館のホームページも記されていた。何気なくのぞいてみたが、なかなか興味深いことが書かれていた。返信にはそのことも書き記した。
 以下はぼくが書き送ったメールである。名前はイニシャルにしてある。
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 (前略)
 日熊谷守一美術館に行ったこと、昭和記念公園に行って雷雨にあったこと、興味深く読みました。
 写真もありがとう。

 Sくんはもう大人だから言うのだけれど、君が元号に親近感を持っていることに、少し複雑な感情をぼくは抱きます。
 元号というものは、明治以降の天皇制(元首であるか象徴であるかは別にして)をもとに定められたものです。その間、日清・日露戦争、アジア太平洋戦争をはさんで為政者は日本国民のみならずアジア地域の人たちに言い難い苦しみを与えてきました。
 敗戦後の一時期、多くの国民は二度とあのような悲惨を味わいたくない、味わわせないと誓ったはずです。それにも拘らず今はどうでしょう。その反省が生きているでしょうか。
 ぼくにはとてもそのようには思えません。むしろ新たな戦争に向かって突き進んでいるようにさえ思えるのです。
 元号は為政者(少なくとも戦前までは、その頂点である天皇)のシンボルであるのです。

 そんなことを言わないまでも、元号というものは不合理で不便なものだと思います。使わないに越したことはないとぼくは思うのです。
 熊谷守一さんのことはぼくは知りませんでした。しかし、Sくんに教えてもらったホームページで彼のことを少し知りました。
 熊谷さんの略歴は全て西暦で記されています。ぼくのように元号に対する拒否感からそうしたわけではなく、そのほうが合理的だし分かりやすいからであろうとは思います。

 ホームページには、守一少年が小学生の時に、運動会の騎馬戦で旗頭になった彼のチームが負けそうになると、校長が笛を吹いて止めさせた書いてありました。それは熊谷家が村で指折りの資産家であったからです。守一少年は、このことをどれ程恥ずかしいと感じたことか、ぼくにはわかるように気がするのです。
 なぜなら、小学校の先生の教える楠木正成の忠君話が明治以降に為政者が持ち出してきたものだと考えられるほど守一少年が冷めた目と頭を持っていたこと、戦争中もけして戦争画(戦争中は著名な画家の多くは戦争画を描いています)を描かなかったこと、文化勲章の内示を断ったことなどを考えると、自然とそのような結論になるのです。
 熊谷さんは権威や権力を嫌い、金儲けや名声とは縁のなかった人のようです。

 Sくんのおかげて新たな発見がありました。熊谷守一画伯、機会があればその絵を見たり、その人となりを知りたいと思いました。ありがとう。
(後略)
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 実はこの熊谷守一画伯、昨年公開された『モリのいる場所』のモデルになった人物である。ネットでさらに詳しく調べたら分かった。おそらく教え子もその映画で画伯のことを知って出かけたのであろう。
(2019.5.6)



30年前

 今日は2019年4月30日だ。
 昨日は天皇誕生日、改め「昭和の日」。天皇制反対のデモに出かけたいところだったが、情報に接することが出来ず断念した。非常に残念だった(もっとも出かけたところで。今の体調ではデモもままならないだろうが……)。
 それ以上に残念なのが、このようにまともな意思表示が圧倒的な少数者にとどまっていることだ。天皇制について誰も何も考えない、何も言わない、自分に関係ないことだから関心を持たない。黙っていればいつの間にかそれが常識になり、口に出そうにも躊躇してしまうようになる。いや、既にそのようになってきている。

 ぼくは小さいころから「テレビっ子」だった。だからなるべくテレビを見ないようにしている。見始めるといつまでも見てしまうからだ。だから通常はニュースか相撲か、時としてお気に入りのドラマを見る程度だ。
 しかし、昨日今日の(おそらく明日も)テレビ番組は、天皇の代替わりで天皇・皇室関係や、元号切換関係の番組が目白押しだ。そうでなくとも、何かというと「平成最後の…」が接頭語のようについて、うるさいことこの上ない。
 天皇や皇族の固有名詞にしても「和子さま」「悠仁さま」などと、まことに聞き苦しい。いつから日本は身分差別の国になってしまったのか。誰もおかしいとは思わないのか。

 今から30年前も同じような事態があった。天皇の危篤、死亡に関連した、いわゆる自粛ブームだ。テレビでは昭和天皇の想い出やらなんやらで持ち切り。お笑い系の番組は言うに及ばず、通常の歌番組やドラマまで姿を消した。
 こちらとしては天皇が死のうと生きようとどうでもいい。そもそも天皇などという前近代的なものがないのが一番いい。テレビを見たいわけではないが、どのチャンネルもそればかりというのが我慢ならない。テレビに限ったことではない。新聞、ラジオまでもが同じ状況だった。選択の自由がないのだ。マスコミの正体はそんなものだと言ってしまえばそれまでだが、こうして世論が、世間の「空気」が、人々の常識が形作られていく。
 いつもなら絶対に見ない教育テレビ(2チャンネル)やラジオ第2だけが通常番組を流していた。こんなことでほっとする自分がバカバカしい。
 そのような閉塞状況の中、(「多摩御陵」がある)八王子現地で天皇の葬儀=大喪の礼反対のデモがあることを知った。よくぞ呼びかけてくれたと感謝しつつ、友人・知人に声をかける間もなく、ひとりでデモに参加することにした。
 今だから言えることだが、デモ実現に至るまでには苦労が多々あっただろう考えられる。警察権力からの妨害や、右翼団体からの抗議があるという(理由にもならない)理由で行政当局が公園使用を拒否するなどのこともあっただろう。それを乗り越えデモを実現した団体に敬意を表したいと思った。
 参加を決めたものの、現地に着くまで個人的には不安もあった。警察の過剰警備や右翼団体の妨害を恐れないと言えばうそになる。それでもデモに参加して自分の意思を明確に示したいという思いが勝っていた。
 今ではどこをどのようにして歩いたのか覚えていないが、いわゆる「世間」や、警察・右翼などすべてが敵対勢力に見える中、初めて会ったデモ参加者同士の連帯感は半端なものではなかったような気がする。デモ解散地点までの道程は長く(感じられ、)疲れたが、(たぶんに主観的だが、)使命感を共有する団体行動ではあった。
 心配していた右翼からの抗議行動はなかった。というより右翼の姿を見た覚えがない。連中も天皇の葬儀だから「自粛」したのだろうか。なにぶんにも31年前のことだから確かなことは言えないが……。

 今手元に「天皇葬儀をめぐる現状に異議あり! 2.24八王子 闘いの記録」という冊子がある。天皇制反対のデモを組織してくれた団体は「天皇葬儀をめぐる現状に異議あり! 2.24八王子集会実行委員会」という名称だ。そこには市民団体・労働組合・学習会など33団体が名を連ねている。いずれもナショナルセンターとか連合体のような大きな団体ではない。
 組合と言っても少数組合やその支部・分会である。中には「有志」というのも珍しくはない。それでも今と違って組合が一定の力を持っていた時代だ。主流派にはなり得ないながらも良心に従って行動するメンバーが健在だった。
 反対に言えば、そのころから天皇制の問題に関して異議を申し立てるのは組合の中でも少数者であった。それほどまでに天皇制の問題は根深い。それほどまでに日本の民主団体の、ジャーナリズムの、知識人の天皇制に対する姿勢は腰が引けていると言わなければならない。
 この集会では色川大吉さんが参加し連帯の挨拶をしている。以下にその一部を記します。
 「わたし普通の市民が本当はこの問題を考えて下さっていると思うんです。ただ言うと面倒臭いことが起こる。日本の社会っていうのは大勢の人が右へ行けば右へ行くのが安全だと思うような社会の風潮がありますから、あんまり正直に出て言わない。こういう集会があるということを世界の人に見てもらいたいわけです。日本が天皇大喪一色じゃないんだということを知ってもらいたいわけです。」

 もし明日天皇が死んだとして、30年後の今日、あの頃と同じような抗議行動がとれるだろうか。少数団体とは言いながら、あれほど多くの団体が名を連ねることができるだろうか。憲法・平和・人権といったテーマではその萌芽が見られないこともない。しかし、タブーのようになってしまった天皇制問題で、少数者に自足せず、多数を求めて結集することができるのだろうか。
 いやいや、「だろうか」では他人ごと過ぎる。微力であっも、自分がその理想に向けて日々取り組むしかないのだろう。
(2019.4.30)



誰が「ちょうちん持ち」か

 安倍首相は、なにが何でも憲法に自衛隊を書き込みたいらしい。そのためには嘘もつくし、人の情けにも訴えることもする。
 前月にも地方自治体が自衛隊の募集業務に非協力的だなどという嘘を言っている。2月10日の自民党大会で「新規隊員募集に対し、都道府県の6割以上が協力を拒否している悲しい実態がある」などと述べた。私などは、「えっ!、6割も協力しているの!!」と思い、その先に徴兵制を想像してしまうものだが、安倍筋の読みは正反対らしい。
 非協力自治体(あくまでも想像だが、その多くは革新系、ならびにその流れをくむものではないか)に対し国民の矛先を向けさせ、「悲しい」という修飾語で「かわいそうな自衛隊、災害救助であんなに頑張っているのに……」というイメージを纏わせ、情けを梃に憲法改正に持ち込もうとする策略が目に浮かぶ。なかなか策を弄した発信だ。
 きっと背後には強力な右派系ブレーンがいるのだろう。自民党改憲案にある9条の「戦争放棄・戦力不保持」を残したままで自衛隊の存在を明記した9条2項を付け加えるという改憲案にも同じ背景が見え隠れする。

 3月1日の新聞(東京新聞朝刊)では、衆議院予算委員会のやり取りを伝えている(添付記事参照)。自衛官の子が「お父さん、憲法違反なの」と涙ながらに尋ねたという安倍首相の発言(この首相発言そのものが前述の系譜に連なるものだが、)に関するもの。自民党の小田原潔議員(東京都第21区)と本多平直議員(比例北海道ブロック)との非難合戦とある。
 本多議員が安倍首相にその話が実話かどうか尋ねたことに関して、自衛隊員の地父親を持つ小田原議員が(自身がそのような経験をしたと語るのではなく、)安倍首相の発言内容が事実という前提に立って、自己の感情を吐露する発言をしている。本田議員がこれに対し「政権のちょうちん持ち」と指摘しているのは間違ってはいない。ただし、問題なのは続く発言である。
 本多議員は「(エピソードの)確認をした。自衛隊は合憲の存在だと尊敬している。本当に改憲の理由たり得るか議論したい」と反論している。「自衛隊は合憲の存在」、「尊敬」までしているとは……。
 国の在り方や政策に対する見解と、国の政策に個々携わる人々に対する向き合い方は別物だ。前者に対して批判的であるからといって、その批判を彼らに向ける必要はない。携わざるを得ない人々は、むしろ被害者ですらある。本田議員は情の世界に足をすくわれて「尊敬」のことばを発してしまったのだと思いたい。そうでなければ救われない。

 1994年6月、連立を組んだ社会党委員長の村山富市氏が首相になった。そこでぶち上げた自衛隊合憲論からの流れがありながらも、自衛隊違憲論は今でも根強く残っている。護憲野党を支持する人たちの中には自衛隊違憲論、非武装中立論に立つ人も少なくない。そのような人たちをベースにして「自衛隊合憲」「尊敬」を口にすることは背信であり、大衆迎合主義そのものであり、結果として改憲政党の自民党の「ちょうちん持ち」となっている。
 立憲民主党が保守本流をめざす(枝野幸男党首発言)であれば理解できないこともない。年初に伊勢神宮を参拝するとなれば、むしろ当たり前というほかはない。
 共闘を組む本来の護憲政党には、立憲民主党に多くを期待することの危険性を充分に見据えてもらいたいものだ。
(2019.3.8)



天皇の謝罪

 韓国国会議長の天皇謝罪発言が話題になっている。「話題」というよりは「大騒ぎ」というべきかもしれない。保守も革新も、日頃良心的と言われているメディアや、評論家・ジャーナリストまでもがこの「とんでも発言」を非難している。まるで明日にでも戦争が勃発しかねないような勢いだ。

 韓国の文喜相(ムンヒサン)国会議長が米ブルームバーグ通信とのインタビューで、天皇陛下が元慰安婦に直接謝罪をすれば慰安婦問題を解決できると話した際に、「その方(天皇陛下)は戦争犯罪の主犯の息子ではないか」と語っていた。(朝日新聞デジタル2019年2月9日)

 だが、議長の発言はそれほどとんでもない内容だろうか。少なくとも、ぼくにはそのように思えない。
 「大東亜戦争」と言われたアジア太平洋戦争のさなか、国民は天皇の名のもとに赤紙一枚で戦争に駆り出された。今では考えられないことであるが、天皇は親、国民はその赤子(せきし)として位置づけられ、戦場に赴くことは当然の義務であり、名誉なことでもあった。内心はともかく、少なくとも表面上は皆そのように振舞っていた。
 そうした位置づけにある以上、子である国民が犯した過ちは、当然のことながら親である天皇が負うべきである。子供に反抗は許されるはずもないのだから。
 アメリカ主導による極東国際軍事裁判において天皇が戦犯とされたか否かは問題外だ(実際は、アメリカの世界戦略に基づいた対日政策によって裁判にかけられなかったに過ぎない)。また、現在の日本国憲法における象徴天皇制のもとでは、天皇の政治的な発言や行動ができるはずもないのだが、そのことを承知のうえでも、文議長の言わんとすることはわかる。
 文喜相国会議長のお歳は分からないが、おそらく直接の戦争体験世代ではないだろう。しかし、韓国で生まれ育っている以上、その両親や祖父母は日本による(併合という名の)侵略の犠牲になっていると思われる。
 被害を与えた側はすぐに忘れても、加えられた被害については、なかなか忘れられるものではない。ましてや国家という巨大な強制装置、しかも他国のそれによって加えられた理不尽で屈辱的な痛みは、民族の誇りがあればこそ、次の代、さらにその後の世代まで引き継がれていく。

 天皇が実際に頭を下げて、心からの謝罪ができればいいのだろうが、現憲法下では、現実的には難しいだろう。問題はできるかどうかということではない。文議長のような思いに心を馳せることをするか否かだ。
 文氏のそのような思いは、ひとり彼だけのものではないはずだ。おそらく韓国人民の圧倒的多数の想いでもあろう。それに対し、日本国の首相や官房長官、外務大臣までもが、居丈高に「無礼だ!」などと吠えたてている。そのような対応で解決する問題でないことは子供でも分かることだ。
 先にも述べたが、メディア・ジャーナリスト・文化人なども完全にこの流れにのってしまっている。それは、元徴用工に対する韓国大法院(最高裁)判決や従軍慰安婦問題、レーダー照射問題などの時と同じくヒステリックだ。一方的で嵩にかかった表現が多く、そこにはものごとを解決に向かわせようという姿勢は伺えない。

 これらの問題は、元をたどれば1904年の日韓議定書にはじまる1910年の「日韓併合」にまで行きつくだろう。そのうえでの(「解決ずみ」をもたらしたはずの)1965年の日韓基本条約であり「日韓請求権協定」だ。
 いま私たちがなすべきことは、日韓併合に至る歴史を知り、謙虚に朝鮮人民の声に耳を傾けることではないだろうか。
(2019.2.15)



『青春の彩り あゝ懐旧の花散りて』『戦時下の絵本と教育勅語』

 最近2冊の本を読んだ。『青春の彩り あゝ懐旧の花散りて』『戦時下の絵本と教育勅語』である。著者は、前者が鈴木健二、後者が山中恒。どちらも80歳代後半で、少年期に戦争体験がある。

 『青春の彩り あゝ懐旧の花散りて』から述べる。
 NHKのニュースで珍しい人が出ていた。鈴木健二さんだ。戦時下の尋常でない状況について語り始めたという内容だったと思う。なにせニュース番組の中のスポットのような扱いだったので、詳しくは分からない。
 現在の政権の在り方に不安と憤りを覚えて、この人もついに、戦中の理不尽な有様を語りだしたのだろうと即座に思った。
 ぼくらの世代にとって鈴木健二と言えば、「クイズ面白ゼミナール」のアナウンサーとして名を馳せた印象がある。また、この人の著作としては『気配りのすすめ』が有名だが、ネットで調べたら、最近も新刊を出しているらしい。『青春の彩り あゝ懐旧の花散りて』という小説である(ニュースでのとり上げはその一環だったのかもしれない)。
 この小説は、旧制弘前高等学校での、寮生活を含むバンカラな学生生活を中心に、戦時下における権力による不合理な強要に対する主人公の反骨とロマンスを描いたものである。背景には東京大空襲の悲惨な体験や教育勅語への反発がある。
 この本は活字が大きいため、老眼のすすんだ自分には手に取りやすく、あっという間に読めてしまった。

 『戦時下の絵本と教育勅語』は『ボクラ少国民』で知られる(?)山中恒の著作である。前述の著作よりは児童文学作家(本人は自身のことを「児童よみもの作家」と称している)として有名なはずだ。このことを語りだすときりがないので、本書と関連する『ボクラ少国民』を例示したに過ぎない。山中恒をとり上げるのはこれで2回目である(「街をわたる風・二の蔵」の「町田市民文学館山中恒氏講演会「子どもの本のねがい―児童読物作家として」参照)。
 「はじめに」として、教育勅語の嘘っぱちと欺瞞性が体験的に語られている。教育勅語について、「『国体原理主義』に基づく戦前の公教育の(中略)聖典」「これは『奴隷の掟』みたいなもの」と断じ、教育勅語を暗唱させる幼稚園や、教育勅語を学校で用いることに肯定的な見解を述べる現政権に対して危機感を示している。
 以降のページでは、戦時下の絵本(隔ページに絵本の実物の画像が解説とともに載っている)を通じて筆者の教育勅語体験がつづられている。帝国陸海空軍の勇ましさ、「神の国日本」の伝統のすりこみ、大東亜共栄圏の正当性、国家と家族の一体性、「小国民」への改造、国体原理主義の象徴としての日の丸の親和性などなど、帝国権力によるマインドコントロールが進められていくさまが、親しみやすい絵を通して伝わってくる。よほどひねくれた子供でなければ、素直に信じてその気にさせられてしまうことだろう。

 ふと思った、これは70年以上も前のことではない。軍隊の海外派遣、「美しい国、日本」のスローガン、隣国に対する居丈高なふるまい、多様性を認めない価値観、日の丸・君が代の強制、そして極めつけは、山中さんも述べているように教育現場への教育勅語の導入である。安倍首相の言う「戦後レジュームからの脱却」とは、まさにこのことではないか。
 日本の現状に対して危うさを感じ、動かずにはいられないのは誰しも同じだ。どちらの著者も高齢だが、沈黙を続けることはできないのだろう。そんな人は身近なところにもたくさんいる。
 現政権のひどさは極まっている。国会を見ているだけでも、だまし、ごまかし、うそ、言い逃れなど、あまりにひど過ぎる。アメリカへの追従、軍備の際限なき拡張、憲法無視、利己主義と腐敗、少数者への想像力の欠如、言葉の機能すら失われている。この状況で何もしないのは現政権に加担することと同じだ。
(2019.2.14)



忙中閑あり

 体調悪化のなか、好んでいろいろなことに首を突っ込んでいる。

 マンション管理組合の理事はもう3年も続けている。マンション関係の連絡会を3ヶ月に1回ぐらい計画・実施し、近くのごみ処理場の問題にも関わっている。そのうえ「コスタリカの奇跡」という映画の上映会も担うことになった。この映画を中野で見て、地元でもぜひ上映会を実施したいと思ったのがきっかけだ。
 はじめは代表を知名度のある誰かにお願いし、自分は実務的なことに専念するつもりでいたのだが、候補となる方に次々と断られ、結局自分が代表となるはめとなった。集客のために、コスタリカの駐日大使に来てもらいを挨拶をお願いしよう思い立ったが、話はだんだん大きくなって、当市(東大和市)とコスタリカの首都であるサンホセとの平和友好都市協定を結べないかということになった。これを担ってもらうべく、市内の関連団体に話を持って行ったのだが、結論としては受け入れてもらえず、自分で「サンホセの会」というのを立ち上げた。

 平和友好都市はともかく、まずは映画会だった。やるならなるべく広範の人たちと取り組みたい、そのため既成の組織に頼らずひとりひとりの市民の力で実現できないものかと考えた。外形的にはまさにそのようなものとして取り組みが始まったのだが、実質的にはすでに他の団体で組織されている人たちが多く、そのスタイルや力に負うところが大きかった。それに乗っかれば楽だったし、比較的スムーズに進むことも事実だった。
 では、どんな組織・運動の方向をめざしていたのかと言えば、賛同する人たちが、やりたいことを、やれる範囲で無理なく取り組むようなスタイルである。言ってみれば、決定事項や人間関係に縛られることなく、本人の意欲や主体性を重視する取り組みをめざしたかった。そのようにするためには規模が大きすぎたという反省もある。しかし少なくとも、個人的にはそのようなスタイルで進めてきたつもりだ。
 そのため、従来の運動方式で進めることが習慣となっている人との間では多少のハレーションも起きた。組織や役割にこだわる人はとかく「…ねばならない」「…すべきだ」という姿勢になりがちだ。いっぽう主体性にこだわれば、突出した人が出てくるいっぽう、後退・脱落する人たちも出るが、反面それを支えようという、力になろうという人も出てくるのも事実だ。現にそのような現象もあった。運動の面白さといった点から言っても、断然このほうが楽しい。
 「連帯を求めて孤立を恐れず」という言葉がある。連帯そのものを否定する気はないし、妥協というものを認めないわけではない。しかし連帯のために何かを失ったり、棚上げにしたりするのは好ましいやり方ではない。100人の組織されたひとたちは確かに力になるが、たった一人から差し伸べられた手の方があったかいし、大きな力を感じさせてくれる。
 いつ辞めてもいいし、いつ再開してもいい。やりたい人がやれる時に可能な程度でやればいい。自由で主体的な取り組みを夢見ながら、今は宣伝活動に精を出している。

 コスタリカ大使にも来てもらいたいという「野望」についてはいろいろと変遷があり、話は限りなく広がってしまうが、なるべく簡単に記したい。
 初めに書いた通り、上映会での大使挨拶という着想は、映画宣伝のためという実利的な動機だった。それが次第に、平和友好都市協定を結べれば市にとっても有意義なはずだし、日本や世界平和にとっても意味のないことではないと考えるようになった。そもそも、市は「平和都市宣言」を発し、数々の独自の平和事業を行っているのだ。
 また、当市には戦災遺構の「変電所」というモニュメントがある。市ではこれを「西の原爆ドーム、東の変電所」と呼び、保存のための寄付金をふるさと納税の対象としている。返礼品はなく、それに代わるものとして、変電所に備える寄附者名簿に寄附者の氏名と寄付金額とメッセージの記載があるのみというユニークな取り組みだ。平和国家コスタリカ共和国大使の招請は、今は衰退しているこのふるさと納税にも有効なはずたった。
 これらのことと共に、映画会での挨拶と変電所の見学に来ていただけるようを手紙にしたため、コスタリカ大使館に郵送した。ほどなくしてコスタリカ大使館から承諾の一方を電話で受けた。ただし市からの公式文書が必要という(この時点では、それを市による公式な大使招請状と理解していた。しかし後になって、市が公式に映画会を後援しているという文書でも可と判明した)。
 市が、果たして大使招請状を発行してくれるだろうかと懸念したので、市長との面談を求め趣旨と内容を直接説明することにした。しかし市長は会見を拒否。それなら副市長にと譲歩したが、これも拒否。結果はともかくとして、市民の声を聴く気が全くないことに落胆した。しかたなく文書で要請し、文書での回答を求めたが、文書での回答も拒否。電話一本で断りの意向を伝えてきた。
 市の姿勢に怒りと失望を感じたが、この時点で上記誤解があったことが判明し、コスタリカ大使館には必要書類を郵送した。コスタリカ大使館ではそれを本国に照会し、大使派遣の承諾を得るのだそうだ。
 しかし映画会まではすでに1ヶ月程しかない。大使のスケジュールが埋まってしまえばそれですべてはご破算になる。何とか招請を実現したいと思った。そこで、大使と接触のある方を、人を介して紹介してもらい相談にのってもらうなど、可能な限りの取り組みは進めている。だが今は、結果待ちの状態である。もし今回大使招請が実現しなくとも、今後コスタリカ大使による講演会などが実現できないかとも考えている。

 体調悪化を理由に引きこもることはしたくない。できるだけ社会参加し、ついに動けなくなれば(多くの人に迷惑をかけることになるが)、それまでと覚悟している。なんにせよ、自分の体調次第なのだ。
※画像はクリックすると大きくなります。
(2018.12.29)



韓国徴用工判決

 ぼくはへそ曲がりである。みんなが右と言えばその反対を向きたくなる。
 例えば、1994年に起きた松本サリン事件のおり、警察による被疑者として不当な捜査を受けた河野義行氏に対して、当初より不正なものを感じていた。また、マスコミによる同氏に対する容疑者扱い報道に疑念を持ってもいた。
 2001年9.11同時多発テロ攻撃に対して、ブッシュ政権が発動したの「米国愛国者法」にただ一人反対した民主党議員のバーバラ・リー氏にぼくは強く共感した。それほどでもないが、北ミサイル抗議の国会決議の棄権議員にも消極的シンパシーはあった。
 少数者の意見は大事だ。それが絶対的少数者であれはあるほど貴重ではあるし、同時に絶対的多数者に対して危機感を持たざるを得ない。「少数者にこそ正義はある」とまで言いきる自信はないが、その可能性は大きいと思う。

 韓国の大法院は10月30日、元徴用工裁判で原告4人に対し被告の新日鉄住金に1人1億ウォン(約1000万円)の賠償を命ずる判決を言い渡した。この判決に対し、安倍政権を旗頭とする保守勢力はもちろん、日頃安倍政権の政策に批判的なメディアまで、「ありえない」「国際法反する」との論調である(10月29日東京新聞Web版参照)。本当にそうなのか。当初から何か不穏な流れを感じていた。
 キーポイントは1965年に結ばれた「日韓基本条約」だろう。安倍首相は「あり得ない判断だ」と述べ、河野外務大臣は「両国関係の法的基盤を根本から覆すもの」と言っている。

 日韓基本条約については後段で考えるとして、今は単純に考えてみよう。
 ここに大家が異なる2つの長屋がある。別々の長屋の店子同士がけんかになった。いっぽうの乱暴狼藉により、片方の店子がひどいケガを負い入院することになった。双方の大家が店子の頭越しに手打ちをした。「最終的、不可逆的に解決をした」と世間に触れ回る。やられた店子は腹の虫がおさまらない。他方の長屋の店子に損害賠償と慰謝料を請求した。これが認められるかどうかということだ。店子の頭越しになされた手打ちがあるからといって、個人請求までもが認められないわけがないではないか。

 11月5日、弁護士109名と研究者7名の共同声明が発表された(声明参照)。この声明に名を連ねた山本晴太弁護士の発言が11月9日付のヤフーニュース(記事参照)に載っている。
 「韓日請求権協定などの条約は外交保護権放棄に過ぎ」ず、日本政府も日韓請求権協定によって個人請求権が消滅したとは言ってはいない、と言う。
 その理由として「日本は1952年、連合国とサンフランシスコ講和条約を結ぶ際、『戦争で発生した日本の請求権』を放棄したが、国内の被爆者が日本で起こした訴訟に対し、請求権自体は消滅しなかったものの、外交的保護権を失ったという解釈を示した」としている。「個人請求権が消滅していないという主張の創始者は日本政府だ」と述べる。

 11月18日の東京新聞には「元徴用工判決 韓国の弁護士に聞く」と題し、写真の記事が掲載されていた(※記事はクリックすると大きくなります)。韓国で元徴用工らの裁判を担ってきた崔鳳泰(チェポンテ)弁護士は、「個人と国家は別人格で、請求権は認められて当然」と言う。
 「1990年代の韓国人被害者の提訴により、日本の国会では『個人の請求権そのものを消滅させたものではない。』(1991年8月柳井俊二 外務省条約局長)といった答弁が繰り返しなされ、今も踏襲されている。」としている。また、「最高裁は、2007年の中国人強制連行訴訟の判決で、『日中友好声明で中国国民の賠償請求権は失われた』としつつ、個人の請求権自体を消滅させるものではなく、裁判で訴求する権能を失わせるとした」という事実をあげ、「日本が一貫して『協定により解決ずみ』とする立場をとってきたのも『フェイクニュース』」だと指摘している。
 「個人の請求権自体を消滅させるものではな」いにもかかわらず、「裁判で訴求する権能を失わせる」というのは、どうにも理解できないが、主張の根幹は理解できるし、もっともだと思う。

 韓国の最高裁判所の判決にいきり立つ日本政府や日本のメディアには別の思惑があるのかもしれない。むしろ、国民一般に通底する差別的ナショナリズムにかくも容易く火がついてしまう様相が、わが国の危うい状況を示しているだろう。
 彼らは歴史的な事実や、条約や協定の具体を見ていないばかりでなく、自分の立場さえも見極めようとしていないように見える。「国家間の取り決めを破るのはけしからん」、「金が欲しくて来日したのに、裁判で賠償を請求するとは何事か」、「それを認める裁判所は政権の言いなりだ」(こうなるとどこの国のことかと思いたくなる)。被害妄想と、憎しみと、差別意識の泥の縄綯いだ。
 この調子で憲法改悪が進められたらと思うと空恐ろしい。憲法改悪どころか戦争状態にだって突入しそうだ。
 みんなが右を向いているとき左を向く人がどれだけいるのか、へそ曲がりの性根が毎日試されている気がする。
(2018.11.20)



障害者は2度殺される

 障害者雇用水増し問題の成り行きが怪しくなってきた。

 1976年の法改正によって「身体障害者雇用促進法」に雇用率制度取り入れられ、身体障害者の雇用率が義務化された。その後障害の範囲が順次拡大され、現状では知的障害者及び精神障害者を含めた障害者が対象となっている。具体的な法定雇用率は、民間企業 2.2%、国・地方公共団体・特殊法人等 2.5%、都道府県等の教育委員会2.4%である。
 法定雇用率未達成の場合は障害者雇用納付金を納める必要がある(反面、達成している場合は、調整金または報奨金が支給される)。また、障害者の雇用状況に改善が見られない場合には、企業名の公表という罰則制度がある(「障害者の雇用の促進等に関する法律に基づく企業名公表」)。
 しかしながら、国・地方自治体等には罰則規定はない。民間企業にペナルティーを科しておいて、国・地方公共団体は違反してもお構いなしでは、制度設計段階からの欠陥と言わなければならない。

 今回のような場合、第三者機関に調査を依頼し、違反者を処分するのが順当だ。それができないなら、管理者責任をとって所管官庁のトップが罰則を受けるべきだ。現に愛知県と三重県にはその例がある(東京新聞記事参照)。
 長年続き、いわば『みんな』が悪かった。特定の誰かの責任をとるのは難しい」と関係者が言ったという(同記事)。どこかで聞いたようなセリフだ。またしても「一億総懺悔」のような発想か。無責任体制もここに極まれり。

 この不正によって、何人の障害者が就職の機会を失ったと思っているのか。困難な状況に置かれている障害者の働く機会を奪っておいて、だれも処分されず、だれも責任をとらない。これでは職に就けなかった障害者は浮かばれない。
 不正は現行の制度が始まった当初からあったという。すると、もう40年以上も続いていたことになる。40年と言えば、20歳で就職したとすれば、被害者は定年を迎える年齢になっている。
 人生の大半を奪った行為者が処罰されないということは、当事者である障害者にとって、2度殺されたようなものだ。

 津久井やまゆり園の事件から2年過ぎた。優勢思想に染まった犯人から入所者19人が殺害された。しかし彼らの名前は、家族の意向を盾に公表されることはなかった。彼らは犯人に殺され、名前まで葬り去られたことになる。ここでもまた、障害者は2度殺されている。
 そしてまた、今回のような「事件」だ。障害者はいったい何度殺されなければならないのか。
                              ※記事はクリックすると大きくなります。
(2018.11.14)


「障がい者」という書き方

 先日、自分が主催した事業で参加者を募ることになり、担当者が「障がい者」という表記を提示してきた。ぼくは一瞬、戸惑いと困惑を感じた。とうとう自分が関わる世界にまで滲出してきたかという思いだ。
 担当者は、これまでもそのように表記してきたし、世間一般でも同様の表記がいきわたっているとの考えから、この表記を採用したようだ。障害の「害」の字に差別のにおいをなんとなく感じ、それを避ける意味もあって「障がい者」という表記をしているのが世間の常識と読み取ったものだろう。
 そのように感じるのも無理はない。事実、障害児と関わり、差別に対し厳しい見方をするぼくの知り合いが、この表記をしているのも横目で眺めてきた。もちろん本人は障害者というわけではない。なぜそうなのかを取り立てて聞いた覚えもないし、批判したりするような立場にもぼくはない。
 だが、自分がその言葉を使うとなると、考えなしに了承することはできなかった。「考え」と書いたが、明確な考えがあるわけではない。「障がい者」という書き方を受け入れる思考に、感覚的に受け入れがたいものがあるのだ。
 全体での話し合いでも、大勢は「障がい者」派だった。そのほうが無難だから、みんなが使っているから、誰それも使っている等々。理由の大半は周りの反応を受け入れたものだ。なぜそうなのかの説明は聴かれなかった。「害」という字が「世間に害を与える」というイメージにつながるからという声もあったが、これには反対のとらえ方もできる。「世間のありようが障害になっている者」という受け止め方だ。むしろ「変える契機となり得るのが障害者」という積極的なイメージこそ持つべきではないか。
 そのような言葉を使う明確な理由もわからないまま、波風が立たないから、拒否反応を受けにくいからという理由で使用し続けることが、はたして障害者差別をなくすことになるというのだろうか。差別の構造はそんなところにありはしない。むしろ、大勢に流され、何となく「障がい者」という言葉の使い方をすることこそが差別を生む土壌になっているのではないか。

 実はぼくにも、障害者という言葉遣いに抵抗した一時期がある。その時はカギ括弧付きで「障害者」と表記していた。障害者という言葉をそのまま受け入れているわけではないという気持ちを込めたつもりだ。前期のように、「害」という字が負のイメージを持つからそうしていたのではない。「障害者」ひとくくりにされるような人間はいないんだぞという、意思表明のつもりだった。ここにいるのは固有名詞を持った1人の人間に過ぎないのだという思いの発露だ。
 自分が障害者になったからそうしたのか、障害のある子供たちと付き合っていたからそうしたのかは今では定かではない。でも、その子たちの親も同じような思いを持っていたように思う。我が子は「重症心身障害児」とひとくくりにされる存在ではなく、名前を持ったひとりの自分の子供でしかないという言葉を何度も聞いた。そのことに触発されたのかもしれない。
 その時代には「障がい者」などという表記は存在すらしていなかったが、あったとしても取り合わなかったろう。問題はそこにはなかったのだから。
 自分でもいつかカギ括弧を使うのをやめた。そこにこだわるよりはやるべきことはたくさんあった。障害のある子供たちと街に出ることだ。どこにでも出かけた。車いすを使う人と駅に出かけたこともある。そのころは駅にエレベーターなどなかった。それが「当たり前」だった。近くにいる人の協力で駅の階段を上がるしかなかったのだ。市で実施されている成人式に参加することを勧め、一緒について行ったこともある。街に繰り出すのが1人では大変なときは、人を頼んでついてきてもらった。それが楽しくもあった。

 考えてみれば、障害者自身が「障がい者」と表記することはあまりないのではないか。そのような書き方は、おもに健常者の側からの「気遣い」から生じたもののように思える。傷つけないように、差別につながらないようにとの思いがこのような表記を蔓延させてしまったのだとしたら、かえって悲しい。
 なぜそうなのか、そうすることでどうなるのかを考えず、世間一般がそうだからとか、無難だからとかいう理由で使うことは、一種の思考停止だ。思考停止からは差別の芽は生まれても、差別の解消は望めないだろう。
(2018.10.29)

これ以前のデータは「つれづれなる風・五の蔵」に保存してあります。





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